ワシのIQは130まであるぞ(入院しました 番外編)

なんでそんなこと言うの

難病(ここでは病名非公表)にかかって入院中であり、大脳の障害を特定するのにはIQテストが有効で、これから病気で大脳が萎縮したり病変ができたりすると、例えば計算だけとか、一部分だけの機能が阻害されてできなくなるからです\(^o^)/

つまり自慢でも釣りでもないです。これから加齢による影響より早く下落する可能性があります。有酸素運動などが大脳萎縮に有効と言われており実行してます。

大脳にバリバリ病変があるんですが、大脳はあんまり使ってないと言われており、小脳、延髄、脊髄などに比べると病巣があっても、身体症状に出づらいと言われています。そのためIQテストを受け、副産物としてIQが高いことが解りました。

どんな知能検査なの

田中ビネー式かWAISでないと測れないと言われており、WAIS-lllと思われます。午前1時間、午後1時間の2時間です。
http://www.nichibun.co.jp/kobetsu/kensa/wais3.html
算数は全問正解したようですが、時間制限がありませんでした。パズル組み立ても早い方だったようです。クイズなどは少なくとも3問は不正解を出したと思います。画像の完成というテスト(ドアノブのない扉を見てドアノブ部分を指すようなもの)も2〜3枚わかりません、と答えました。

IQ130って凄いの

一応130からがとても凄いと言われているらしいですが、全く実感がないためこの記事を書いています。
上位2.28%とかVery Superiorと言われているらしいですが正直シラネーヨ。

どんな人生を送ってきたの

あまり公表してませんでしたが大学は早稲田文で、早稲田の他学部や上智には落ちてます。
高校時代から勉強についていけなくなり、1、2年はあまり勉強しておらず、300人中200番くらいでした。3年になって勉強に目覚め、毎日頑張って30位くらいかと思われます(文理分かれたので不明)。東大に1人受かるか受からないかという半端な進学校
駅弁の公立大にも受かったんですが早稲田を選びました。文学部をもともと志望していました。
早稲田に憧れがあったので、満足ですし、良い大学だと今でも思います。卒論はコピペしてませんよ!
就職試験のSPIなどでの足切りも食らいまくってます。
今は大手ではない企業に就職して普通の人生を送ってます。

IQ130に思い当たる節は

敢えて言うなら、小中は勉強についていけないという感覚はあまりありませんでした。しかし極めて自己評価が低く、自分の文章、絵、歌声などが悉く嫌いでした。自分自身に対して完璧主義で批評家的目線を浴びせていました。大人になってなお悪化してます。
図書館に行って勉強したり、読書なども自然にしていたと思います。
高校生になってからは勉強も読書もあまりしなくなりました。今も本を読むのは遅いです。速読は出来ません。記憶力も人並みでしょう。
自分は頭がいい人というのは、林先生のように途中で受験勉強をやめたり、ホリエモンのように数ヶ月の勉強で東大に受かるような人だと思っていたのですが、自分は勉強しても上智に落ちたりしていたので、全然違うな、という感じでした。
敢えて言うなら、英語の勉強は3ヶ月くらいで形になって、結構しゃべれるようになってると思います。その3ヶ月は図書館と喫茶店にこもりっきりで泣きながら勉強していました。
やった・やらない全部載せ!TOEICリスニング満点までの道〜あるいは外人から帰国子女と間違われる方法〜はこの日記最大のロングテールコンテンツです。
学習哲学については英語が話せる・書ける・読めるようになるための3つの能力半年で英語が話せるようになった私の勉強法(ついでにTOEIC Aランクも実現)を参照してください。
ただ他の語学が得意かというと、大学の第二外国語含めあまり身になっていなくて、努力しないと身に付かないタイプのようです。
やっていくうちに、「何が足りない」「何が解っていない」「ここがポイント」ということは、比較的見えて来る方かと思います。つまり先取り型ではなく復習タイプです。今は医学の勉強をしていますが、予習も頑張ってるんですが一番感じるのは復習の大切さです。こういった視点の取り方は、大学時代評論を学んだ事にも生かされたと思います。

もっと若い頃に知りたかった?

親族など本当に一部の人ですが、この話をすると、「もっと昔に知っていれば、東大に行けたかもしれないのにねぇ、今更知ってもねぇ」などと言われます。
努力したけど東大に行けなかったのは上に書いた通りです。
若い頃に知っていて、もし唯一ポジティブな変化が起こっていたとしたら、もしかしたらですが医者になろうと思っていたかもしれません。精神科医かな。でもやっぱり文学徒かもしれないですね。病気になって医学にも興味が湧きましたが、ますます芸術が好きになりました。そのあたりは厄介そうな病気にかかった時芸術に助けられたに書いてあります。それに医者は、患者が悪くなったり死ぬのに立ち会わなくてはならないので、書かれた偽物の人生ですら自分に取り込んでしまう私の気性には向いていない気がしますね。理系の学問も苦手でした。センターIAは58点でした。
しかし、若い頃に知っていて、ネガティブな影響も十分に予想されます。東大に行こうとして落ちて挫折したり、仮に東大入っても、自分は努力して人並みなので天才と比べて落ち込んだりしていたかもしれないですね。私も最初は今更知っても時既に遅し、とい思いましたが、今は若い頃に知らなくてよかったなと思います。子供の頃、IQを測るけど伝えないことは正しいと思います。
病気になった時も、医者になるっていう選択肢のことを考えましたが、肉体の面では医学が必要でも、私の精神面には文学が必要だったと思いますし、やり直せるとしても文学部に行くと思います。文学部で一番感銘を受けた言葉は、ロシア文学の井桁貞義教授の、「罪と罰を読んで、ラスコーリニコフの事を、わたしだ、と思いました。“わたし”を物語の中に発見する事は、救いになります」という一言で、これは私の萩尾望都に相当し、私にとっての金言となっています。

ネットのIQテストやってみて

http://met.chu.jp/test/iq.htm
125点です。時間制限は無視しましたのでもっと低いでしょう。これとIQが相関しているかはわかりません。わからない問題もあります(特に設問12)。

なんかの間違いじゃねーの

自分も半分くらい信じていません。相性とか偶然の問題かと。残りの半分は試験時間が長くて色んな種類があったのと、具合悪すぎて主治医を呼びつけた時、開口一番「IQがめちゃめちゃ高いですね。130越えた人初めて見ました」と私の体調不良を無視してしきりに訴えていたので信じてます。でも50人に1人って結構多くない?

まとめ

IQは高くてもあんまり実感はないし、縛られないためには知らない方がよいです。
ブログにMENSA合格したと書いている人もいっぱいいるのでIQ130はそんなに珍しくはないはずです。自分はMENSA無理そうだな…。
人間どう生まれるかじゃない、どう生きるかよ。

入院しました その3(ステロイドパルス 副作用)

入院-14日。3月の末に、駆け込み需要で自転車を買う。というか正確には、初診を受けた日の前日にロードバイクを予約していたんだけど、自分の平衡感覚がいつ失われるか分からなかったので、もっと乗りやすい自転車とした。歩くより自転車に乗っている方が楽だ。その後、この自転車は入院物資や病気の本、役所への届け出などに活躍することとなる。

入院6日目。ステロイドパルス3日目で1クールの最終日。午後は特に何もないのだが、副作用が出ると厄介なので翌日朝まで待機することとする。貰ったDVDを見ない訳にいかないと思い、映画を1本見る。この日は睡眠が割と取れる。
前日まで悩んでいた注射部位の痛み。右手の柔らかい部分に刺し直し、嘘みたいに消える。普通パルスは痛くないもの。痒み発作のある左手、手の外側の骨ばった部位だったのが悪かったようだ。

入院7日目。パルスの翌日朝に、顔面紅潮、ムーンフェイス、動悸という副作用があるのが分かっていたため、昼食まで病院にいることにする。マッサージしていると顔の横のリンパが痛い。昼食後、外泊に出かけるが、足の痺れが治療前よりも不愉快で、治る経過として痺れが取れる過程なのか、ステロイドの副作用なのかわからない。さらに手の痒みと目眩まであり、正直治療前よりも具合が悪い。それでも家に帰って自転車を引っ張りだし、自転車屋と本屋をはしごしたあと、家族と会食し家に戻る。自転車に乗っている間は壮快で目眩など気にならない。自宅に戻り10時から5時頃まで寝る。

入院8日目。この日は午前中を雑務に追われ、その後保健所へ。家に帰って久々のバスタブに浸かり、17時半の夕食に間に合うよう病院に帰還。病院までの電車の1時間、座れなかったのもあるのだが、足の痺れ、目眩、手の痒みが気になって仕方がない。帰ってすぐにナースに申告するが主治医には会えず。さらに眠れず0時頃中途覚醒する。夜起きても良いように自転車用のライトを持ってきて、ハンカチを掛けて蛍雪の代わりとする。

入院9日目。午前は心理検査があり、鬱や統合失調に該当しないか色々と質問を受ける。これは診断に必要なものではなく病態の研究への協力。明日からまたパルスであるが、症状がパルス前よりも悪くなっていることを朝も夕もしきりに訴える。この日は昼食時に過去最大の目眩が来て、地震でもあるのかというような横揺れ。昼食後は眠りが浅かったため昼寝の気分になり、気持ちよく寝る。午後に家族が面会に来たためお茶をしながら雑談し、気も紛れるが、目眩と痺れは少し軽くなった程度。夕方ようやく主治医が来る。MRIの結果をみて病気が急速に進行しているからこのようにパルスをしても具合が悪くなっているのではないか、という疑問をぶつけたところ、新規病変はないという。単純にステロイドが合わないのかもしれないし、治療過程なのかもしれない。とりあえず翌日のパルスは行うこととなり、自分もそれに同意する。また知能テストの結果に問題がなかったことを知らされるが、自分としては名前が出てこないことが(前からだが)結構ある印象。知能指数について色々と話し合いをし興味を惹かれる。しかし医師や看護師になるという選択は尊いなぁ。自分が潰れそうでなかなか難しそうだ。

入院10日目。パルス2クール目開始。この日の昼以降、目眩が消える。足はややしびれており、手はほんの少し痒いがようやく回復の糸口が掴めてきた。主治医は朝、点滴の針を刺しに来たが、具合が良いことを伝える。「一番何が良くなりました?」「力は戻ってると思います。膝が折れなくなりました。」「一番何が気になります?」「目眩、痺れ、かゆみ。とくに目眩と痺れは前より強いし、目眩は生活に影響があるレベルで一番困ってます。」それでも、主治医は昨晩もう一度MRIを見てやはり悪化しているわけではないことを確認してくれたらしい。午後には下半身のMRI、これは念のため撮ったらしく問題はない。体重が2キロ増える。翌日朝トイレに行けないというので、わざと12時に寝るが1時まで寝付けず、かつ6時過ぎには起きる。

入院11日目。パルス通算5日目。私の場合2クール目は不眠以外副作用なし。動悸も顔の膨張も紅潮もなくなった。筋肉痛のようなものもあったんだが、実はこれはステロイドが筋肉を増強させると勘違いして筋トレをした所為である可能性大。実際には別の種類のステロイドでないと筋肉は増えない。朝は腹部エコー、その後パルス、そして背中のMRIパート1。主治医とすれ違い退院日が1週伸びることを知らされる。脳の病変が多いのと、背中のMRIに病変があったためである。臨床症状から予測はしていたがショックである。自分の病名(ブログでは知人の検索避けのため公開していない)が大体確定してきた。最も軽いものだと言って良く、幸運なのか不幸なのか解らない。他の病気の人の気持ちを思うと何とも言えない。足が軽くしびれているだけで極めて好調。2km軽いジョギングに出かけるがやや足がつっかえたのでやめる。主治医には夜もう1度呼び出され、解る限りの診断結果を告げられ今後の治療方針を説明される。総括は入院15日目に行われる予定。走ったと言ってもそうですか、というだけで全く動じない。話が通じるし自分とは違う意見を言ってくれるので有り難い。来週から経口ステロイドも開始。食事如何に関わらず糖尿になるリスクがあるが、糖尿病になったほうがまだマシで、今は付き合っていける病気らしい。11時に寝て5時に自然と起床。朝食を抜いたためか体重が2キロ落ちる。

入院12日目。パルス2クール目終了日。1クール目の1、2日目は骨張った部位に点滴されズキズキ痛かったが、その後はそんなことはなし。副作用も和らぎ、治療の結果も足の痺れを残すのみ、目眩はほぼ完全に消えた。素晴らしい。午後、MRIパート2。この結果は知らない。会社の人が見舞いに来てくれて有り難い。主治医には会うことなく週末に入ることとなった。体重は更に0.6キロ落ち、正直史上最強痩せ状態。

全体として、パルスの効果がようやく見えてきた2週目だった。

無能な公務員に仕事を与えないことを選択した自治体 

サンディ・スプリングス市について調べてみた。
“独立”する富裕層  〜アメリカ 深まる社会の分断〜」を入院患者の待合室で見た。
一番興味を惹かれた部分は、ジョージア州サンディ・スプリングス市で公務員を消防・警察以外民間に委託したところ。市民サービス、税務課、建設課、裁判官までも外部に委託することで、通常数百名かかる人数を9人に抑えることに成功したという。
そこで、番組の内容から更に進み、そのことによるコストカット効果はどれくらいだっただか試算をしてみた。入札で決定した委託先、全米大手ゼネコンの子会社「CH2M HILL OMI社」の140名の社員が本来公務員が行っていた市の業務を行っているという*1。つまり「9人」とはあくまで正規の市職員の数で、数百名の業務を150名足らずに圧縮したというのが正しそう。入札額は2,700万ドルだから約27億7千万円であり、委託先150人の1人あたりのコストは*2単純計算で1,850万円であり、ずいぶん高いなという印象。*1によると6年契約だというから、そうすると370万円となり、しっくりした金額となる。ちなみにアメリカの公務員の平均年収は3,224ドルと言われており*3、日本円にして384万円程度。つまり、数百人規模の人員を半分程度に削減でき、1人頭の年俸も5%ほど削減でき、さらにサービスも向上した、というのが実情のようだ。単純計算ではこの人件費だけで6年間で約13億8千万円、1年あたり約2億9千万円の節約になっており、番組では「年間5,500万ドル(56億4千万円)が半分以下に抑えられた」とあるため、その他の無駄削減も含め年間約実に23億2千万円の負担削減となっているようだ。市の税収は全国的に豊富なほうで、それでも90億円だというから、これがいかに大きな削減かがわかる。削減の結果、より一層治安強化に財源を割いているようだ。
その後番組は、アメリカの格差社会と切り捨てられる貧困層に焦点を当てたが、私は削減された市職員数百名に興味を持った。たしかに、無駄削減分の23億に対して2億9千万円というのは大きな数字ではない。しかし、ここでは日本では安泰だと言われ、中流の代名詞とも言える公務員で、明らかに100名以上の失業者が出ている。アメリカの富裕層は貧困層へお金を吸い取られる構造を拒否したばかりか、中流層にお金で働いてもらうことも一部拒否を示したのだ。
しかしその結果として、市民から9割の指示を得、少なくとも住民への治安維持やサービスは向上し、無駄な人件費や事業費(ここに貧困対策が含まれる可能性が多いにある)が削減された。このことは私を多いに悩ませた。市長は社長として、市民は会社員として極めて有能であり、貧困層への保護を拒否するモラル的問題を除いて、行った行動の結果に特に問題が見いだせないからである……残念ながら無能であったことが立証された公務員が職を失ったであろうこと以外には。


民間企業よりも働きが悪い公務員を職にとどめるべきか、それとも将来彼らが貧困層に落ちる危険性を知ってでも切るべきか。


正直な話、倫理的には彼らをクビにするのがよくないことはわかるが、心情的にはクビにイエスだ。図書館で疲労困憊した話 | sociologbookにもよく出ているが、彼らは改善を行うという意欲がなく与えられた仕事をただこなしているだけのように思われるため、仮に彼らがやっていることが世間の役にたつ目的があっても、手段として「公務員」が非効率で温すぎるのではないかというのが率直な感想だ。上記の図書館問題についても、そのような事例が起こったら各所で再発が起こらないように情報共有や対策を講じるべきだが、まず行われないだろう。また、日本は人口に占める公務員の割合が少ないが、地方公務員の年収は700万円を超えるなど高額で*4、平均年齢も高い。もちろん国家公務員などを中心に日々、改革、改善を志す人もたくさんいると思うが、自分自身お役所仕事に直面して辟易することは多数だ(たとえば病気に関する申請書類を郵送してくれず、ウェブにも載せず、わざわざ保健所に取りにいかせることなど)。
しかしながら、私は社会福祉の充実には元来賛成の立場である。今回入院し、文字通り社会福祉のお世話になっている。よって、富裕層というよりは、「主権者である市民」が、公共サービスについて意見を持ち、改革を実行することは素晴らしいことだが、サンディ・スプリング市の特集で見られるように、そこに社会的弱者を切り捨てるという動機と結果が付随することには、心情的にも全く同意できない。せっかく無駄をなくし、財源を確保したのだから、社会的な弱者を従来通り保護するべきである。なぜなら、どんなに努力しても人はいつか社会的な弱者に落ちる可能性があり、それは高所得者であっても変わらないのである(難病や手術で保護がなければ年間数千万円の治療費がかかることもザラである)。とはいえ、それが市の仕事であるか国の仕事であるかどうかは多いに議論の余地があるだろうし、日米の差もあろう。
そして今回の特集で最も気になった、クビになった100人を超えるであろう半数の市職員。かれらは普通の知性を持った人々だったと推測されるが、サンディ・スプリング市の行政運営に変革を与えた人々にとって、その普通さは怠惰で緩慢なものに見えたのだろうなぁ。

入院しました その2

入院-21日。
病気のことが発覚したのは入院の3週間前だった。私は長らくお休みしていたTwitterを再開していた。これも別に休む、始めると決めた訳ではなく、ただ単に消費税が上がるから自転車を買おうと思っていて、その事を書きたい気持ちになっていたからだった。これまた消費税の影響でMacBook Airを買っていて、再び書き物をしたい気持ちもあった。
しかし、自転車を買いにいった日には既に半身の調子が悪く、うまく力が入らなくなっていた。その事をTwitterに書いたら今すぐ病院に行くようにリプライがあり、とりあえず#7119の救急相談に電話する。看護師に繋いでくれて、現在の症状について質問に答える。しばらく保留にされ、貰った返答は、「出来るだけ早く、病院に行ってください。自分で歩けますか?救急車は必要ですか。」何となく予期はしていた。軽い脳梗塞かと思っていたから。脳梗塞であれば進行が早い場合がある。急いだ方がいい。「歩けますので電車で病院に行きます。ただ、初診は午前しか受け付けていないんですよ。」「お近くの病院を3つ案内します。そこの代表にまずは電話して、救急に繋いでください、と言ってください。その3つは、午後でも受け付けてくれますよ。」こうして会社を早退し病院に行って、今に至る。


入院3日目。
今日は心理の検査。午前中は、絵を見ておかしな部分を指差したり、図形を推測したり、暗算をしたりといった心理のテストを1時間。絵の問題は難しかった。図形はインターネットにあるIQテストと同じような感じ。暗算は時間制限がないため、気楽に取り組め、全問正解だったという。文系の言葉遊び(頭文字を指定されるもの)などのほうが行き詰まりがあった気がする。算数は大の苦手と思っていたので意外だった。普段であったらそんな偶然もあるものなのだな、と気にも留めないだろうが、現在は初日のテストに続き、脳の機能にあまり問題が出ていないという重要な証左となってくれて頼もしい。
午後には骨密度を測る骨塩定量というやつと、待ちにまった造影剤投入の脳MRI。造影剤はまれに副作用があるらしく、同意書を書かされるが、自分は一切感じず。造影剤を入れずに撮ったあと、注射をされて再撮影される。
その後また心理の検査。今度は歴史問題などが出てくる。広島への原爆の投下の年月日。日本三景富嶽三十六景の作者。実は全て答えられなかった。最後の1つはど忘れして何故か広重と言って、後から後悔した。数字とあいうえおの並べ替え問題は続いていくと混ざって難しい。


入院4日目。
ついにステロイド点滴治療が始まるが、針のせいなのか?痛い。点滴にはほとんど痛みも重篤な副作用もないと聞いていたので意外である。その後脳血流(RI)の検査がある。これも注射をされる。もう注射ばかりで何回針を刺されたか忘れた。元々そこまで駄目ではないクチであるが、あまり注射されているところを見ないようにしている。午後は脳波測定。検査の半分は寝ていてオッケー。
しかしこの時は寝ているのに、ステロイドパルスの副作用で夜は全く眠れず。ひどい事に足のしびれが取れる時のくすぐったい感じが21時ごろから数時間持続する。この時は治癒なのかステロイドの副作用なのかよくわかっていないのでますます怖い。22時に睡眠導入剤を貰いにいくも、筋肉注射だと言われて24時まで待つ事にする。24時、やはり眠れず肩に筋肉注射。耐えられるが痛い。30分で眠りに落ちるが、隣の人が空き缶を落とし4時半に目が覚める。4時間しか寝ていない。


入院5日目。
朝起きたら動悸と顔の紅潮。足の不快感は消えていたが少しピリピリする。しかし痺れはだいぶ軽くなっており、1/3以下に減ったと言って過言ではないだろう。
ステロイドパルス2日目。周りに聞いても痛くないというのに、自分は骨張った注射部位の所為か、鈍いズキズキした痛みと重みがある。その日は耐えて、午後に注射針を付け替えてもらった。
午後は病気の研究に役立てるための調査協力。大きな病院なのでそういうのが多い。ここでもまた認知機能検査がある。パズルを並べ替えたり図形に数字を割り振ったりコインを箱に入れたり数字を並べ替えたり。数字の並べ替え問題は大体正解したと思う。単語を覚える問題も最終回ですべて覚えきった。20個くらいの単語を言われて5回、覚えたものを羅列するのだが、話者に訛りがあると何を言っているのかわからない。どうも関西人が多いように感じる。

入院しました

入院−2日目。
買ったばかりの自転車で、往復15キロ走ってみる。坂道はやっぱりつらい、ということを再発見した。大人になると、出来ないことが何なのか、それがなぜ出来なかったのか、分からなくなってしまい、何でも出来るのではないかと思ってしまうことがある。ミシンを手に入れて縫っていると、なぜ型紙通り服が作れないのか分からなくなって、自分はお針子になれるんではないかと思う。それでもすぐに簡単な縫い目を失敗して、その難しさを再度学習する。ミシンだけじゃなくて、ランニングでも、料理でもそうだった。だから自転車も買ったばかりだと、どこまでも走っていけるのではないかと思うが、案外あっさりとそうではないことを知る。
坂道を上っているときには息がぜえはあと上がっていて、これから入院するのに、こんなに運動してもいいのかと思うが、どこかで病気でも普通な自分を確かめたいだけなのかな、と思った。翌日足が筋肉痛になるかと思ったが、そんなこともなかった。太ももの筋肉が足りない。坂道でダンシングが出来なかった。


入院-1日目。
部屋の片付けが思い通りにいかない。スーツケースが広がっているので、邪魔なのだ。ゴミも、ガラス、缶、ペットボトルと分けて出すのだから結構な手間である。結局入院前日はずっと荷造りと食器洗いとゴミ捨てをしていた。床の掃除と冬服の整理はできないままだった。不安なのは腰椎穿刺だ。痛いというから。


入院1日目。
重いスーツケースを持ちながら、あわせて6回は階段を上った。駅にエスカレーターもエレベーターもついていない場所がこんなに多いなんて。今は歩けるからいいけど...。こんなのでパラリンピックやるの? そして日本人は、スーツケースを持って上がるのを助けてくれない。イギリスと比較したテレビの番組(イギリス人は本当に紳士なのか?という内容)をやっていたけど、紳士たちはもちろんのこと、向こうでは女性も助けてくれる。私も日本ではよく助けている。
窓際で奇麗な部屋に通された。相部屋だけど問題はない。
午前中1時間半以上問診をされてびっくりした。内容はいままでの病歴と病気に気づいた経過。自分でも忘れていたような、病院にかかった履歴をどんどんと思い出して、そんなこともあったな、と思う。こんなに問診をされるのは珍しいらしい。
ただマイヨ・ジョーヌのためでなく (講談社文庫)午後は知能のチェックと体力のチェック。ランス・アームストロングが、著書で脳の手術のあと、「ボール、ピン、道路」という言葉を覚えるように言われ、おかしいと思われたくないので必死に覚えたという話をしていた。私は「かお、きぬ、ゆり、じんじゃ、あか」を覚えるように言われ、暫くすると聞かれたが1つ忘れてしまっていた。しかし、知能はそれ以外問題なし。ここで、はっきりと劣っているひとは、そういう病気のタイプであり、今大丈夫なら今後も大丈夫だそうだ。体力の方はやはり半身がおぼつかず、片足で立つのが難しいが、この病気の中では極めて軽い部類に相当する。軽いことは嬉しいのだが、難病認定されるかどうかが分からなくなり、治療が始められるのか、不安になる。最後に、胸部、腹部、肺、腰のレントゲン。腰はルンバール(腰椎穿刺)に備えたものだという。恐ろしや。夜に、髄液が余ったら研究にまわす旨、女性が説明に現れる。そのときルンバールの詳しい説明を受けるが、骨に刺すのとは違い骨と骨の間に刺すのであまり痛くないらしい。7割の人は、注射と同程度かそれ以下と言う。本当なのだろうか。
シャワーも浴びることができ、夜は疲れてすぐ寝た。3時に起きたが、しばらくしてまた寝る。


入院2日目。
朝からルンバール。緊張するだろうということで眠気の副作用があるリラックス剤を打たれる。名前は不明である。筋肉注射だから痛いですよ、と言われ、確かに同心円状に2〜3cm痛い。しかし耐えられるレベルである。その前から私は眠くて仕方なかったので、眠気の副作用はすぐにはわからない。看護師によると強めの安定剤。一体何なのだろうか、モルヒネ? その後腰の麻酔。麻酔はチクッとする。その後針をさされたらしいが麻酔と区別がついておらず、ルンバールの針の痛みはいっさい感じなかった。上手い人は痛くないというのは本当だったのだ。頭痛防止のために細い針で長い時間をかけて取るという。30分くらいで17ml取っていた。刺している間も抜くときも無痛。これで最大の山場は乗り切った。その後眠くなってきて、1時間眠り、昼食を取り、2時間半眠る。その後ポカリスウェットを買って散歩をし、やや痛む腰のリハビリとする。医師に推奨されたのだ。
そして血液を10本くらい抜かれ、午後は心電図、肺活量、重心動揺、血圧脈は、脳誘導電位。脳誘導電位の足の検査は電気マッサージみたいのをつけられるが、ハンマーで殴られるように痛い、と言えば痛い。耐えられるけれどね。
こんなに細かく検査してもらって有り難いし、ルンバールが問題なく終わって、髄液もぱっと調べたところ問題ないようなので、ホッとしつつ2日目が終了。

厄介そうな病気にかかった時芸術に助けられた

どうも自分は病気らしい。これが分かったのは今週のことで、発覚した日は泣きに泣いたが、今は落ち着いている。確定診断も出ていない今から、受け入れる心の準備がある程度出来てきた。そのことと芸術が深く関連しているように思えたので、記念に記しておく。実をいうと、STAP細胞の話が出た頃からこういった話をしたかったんだけど(虚学と言われる文学部の価値について)。
以下、確定診断が出ていないため、あくまで予想した病気であった場合、である。
今、自分は半身が調子が悪く、バランスが取りづらかったり握力が減ったりしている。ただ今は全盛期の95〜98%くらいの調子で、走れるしジャンプも出来る。不調は投薬で抑えられるという。今後はこれが悪化する可能性もあり、身体障害の他、視力が低下したり、思考にも影響をきたす可能性があるという。進行の速度はまちまちで、半年で現れる人もいれば、何十年後でも見た目は健康な人もいる。医学の進歩で、そういった希望は以前より抱きやすくなっている。
そのことを聞いたとき、自分のライフワークとしたかった文学や芸術、漫画の研究をあまりやってこなかったことを少し後悔した。しかし、インプットだけは続けていて、特に舞台は年に1、2回は海外に見に行っている(訪問地がNYとロンドンばかりだ)。
よって、いずれ自分が上手く歩けなくなっても、まぁ、gleeのアーティーみたいになるだけだろう、と思えるようになったし、映画で一番好きなキャラクターは「ガタカ」のユージーンなんだけど、彼も車いすに乗っていた。今年の1月、ついにジュード・ロウが、これまた私の好きなヘンリー5世を演ってくれたので、見に行けたのだが、やはりいい役者だなと思った。ヘンリー5世は、最初はグローブ座で見たのだが、劇場で見ると爆笑の連続で、自分のシェイクスピア劇はお固いという偏見を打ち破ってくれた大切な作品なのだ。それに、今は電動車いすもあることだし。買う金がないかもしれないけど。
視力については、今は兆候もないし、できれば保持したいが、スティービー・ワンダーのように、視力がなくても存在感を残す人もいる。愛するハンタのコムギちゃんだって目が見えないし。自分の仕事はパラリンピックに関わる部分もあるので、今から点字などに興味を持っていければいいと考えている。それに、盲導犬もいるし(そんなに簡単に借りられないか)。
ミュージカルは、見るのにはお金がかかるくせに、劇場内では、お金がない、苦しい、つらい、そういったことが語られることが多い。なんにせよ、「RENT」で「NO DAY BUT TODAY」と一緒に歌ってきたのに、自分だけ明日、明後日、10年後を同じように生きようというわけにもいかないのだ。
自分は常々、色々な芸術を見ようと心がけているのに、なぜ(一部の)漫画とミュージカルだけこんなに好きなのか疑問に思ってきた。そしてその理由のひとつが、異端なもの、弱いものの立場に立つ姿勢であることを突き止めた。そういった立場に共感するのだ。しかし、果たして自分は異端なのか、弱いものなのか。もちろん色々なことが上手くいかず、道を踏み外したこともある。その時、そういった立場に立てるということに、不思議な嬉しさとやりがいを感じる。最近は、年に2回も海外に行くなどというぱっと見ラグジュアリーな生活とも言える暮らしをしてきた(いや、自分は節約家だし、車もないし、バックパッカーなんだけども)。あらためて、自分の中に弱さがあるということは、とても自然なことに感じる。
自分の中で苦しいことの1つは、病気が軽いことを祈りつつ、最も悪いケースを想定し受け入れようとする心の中で現在引き裂かれていることだ。これは恐怖という名前にふさわしい。そして最も悪いケースの場合、毎日、出来ないことが増え、弱くなっていく肉体と向き合わなくてはならない。とはいえ、これから失望や絶望を繰り返すだろうが、長いことすばらしい芸術に触れ、築かれた自分の価値観に支えられ、病気に立ち向かいながらも、同時に受け入れていけることを願う。

佐藤史生「死せる王女のための孔雀舞」

死せる王女のための孔雀舞 <佐藤史生コレクション>

死せる王女のための孔雀舞 <佐藤史生コレクション>

久々に懐かしの24年組/ポスト24年組の世界に戻ってきて、どっぷりと浸ってしまった。佐藤史生が逝去したとき、人々が口をそろえてこの作品を誉めそやしていたので、手に入れていなかった自分は、悔しく思ったものだった。とはいえ同時に、佐藤史生の作品を全部読んでしまうのも嫌だった。生きる楽しみがなくなってしまう気がした。今回、「佐藤史生コレクション刊行開始」第一弾として、ラヴェルから題を採った「死せる王女のための孔雀舞」が復刊されたのだけど、一読して、あまりの面白さに、そしてもう読めない事実との落差に、やはり死にたくなった。

というわけで急いでキーを叩くが、久々にこの手の話をするので、少しおさらいしていこう。

■なぜ24年組/ポスト24年組がスゴイと言われるのか

24年組には、作風上の特徴がある。SF、ファンタジーや歴史ものも多く、現代を舞台にしない。むしろ、そこから現代社会のあり方自身に疑問を問いかけるような、実験的な設定を多く行っている。主人公が少年であることも多く、またほとんどの場合、異端児である。この少年という表象に関して、私は宮迫千鶴の言う、「『少女』のある時を描くために、間接話法ともいうべき回りくどい方法すなわち「少年」のフォルムを援用した」という説を採用している。つまり、見た目は少年だけど、中身は少女だったり、少なくとも少女が感情移入する対象として造られている、ということ。異端児という造形は、それを円滑に行うためのひとつの鍵でもあるが、同時に自己否定とナルシシズムという相反する感情の表出でもあると、私は考えている。

■なぜ佐藤史生がスゴイと言われるのか

その件に関しては、追悼文 id:lepantoh:20100408 にも記載した。24年組のすばらしさは、究極のバランス感覚にある。とことんエンターテイメントでありながら、純文学のような心理描写の匙加減。作者の趣味の世界と、社会に伝えたいメッセージの塩梅。心をくすぐられながら、無為に時間を過ごすのではなく、濃密で深い読書体験を味わう事が出来るのだ。
そこに石を投げ込んだ人が佐藤史生であり、だからこそ私は佐藤史生が好きなのであった。自身すらも切り裂く聡い自己批判の刃を持ちながら、台詞は極上の詩を吟じている。リズミカルな音符の中に、自分自身でも気づいていなかったような本音を察知して埋め込んでいるような作家だった。

■「死せる王女のための孔雀舞」における二項対立の融合

この作品で、佐藤史生が描こうとしたものは、少女のウチとソトが、ゆらぎの状態を経て、融合していく様である。
ここでいうウチとは、作品の中では、幼い主人公の七生子の自己中心的な態度として現れる。

「(画塾で)そこにある作品かたはしからけなして回るような子供だったんだから」
「絵に夢中になりすぎて他の一切をないがしろにしたから」
「勉強はしない 友達もいない 先生も両親も無視して…」
「できそこないの私は みじめで腹がたって 自己嫌悪と公開と―物置にとじこもってだれとも顔をあわすまいと思った」

少女漫画は伝統的に、自らと同種の者を嫌悪し、異種のものを神様同然に崇め奉るか、さもなくば惹かれることを恐れるあまり、きっぱりと拒絶する傾向にある。佐藤は主人公に他の24年組作家にはなかった等身大の惨めさを植えつけることに成功している。そのことにまずは驚いた。
「死せる王女のための孔雀舞」では、2人の父親を持つ七生子が、それぞれの父との同質性と異質性の中で思春期らしいゆらぎに流されている。様々な対立を経て、忌み嫌う存在だった父との同化を見出す部分は、作中で言及されているとおりオイディプスコンプレックスの要素も含む。このことは驚くべきことではなく、むしろ24年組には、家父長的父との対立を描いた作品の方が圧倒的に多い。この理由は1.作品の時代設定から自立した女性が登場しづらかったこと、2.主人公が自立した女性の擬態として往々にして少年の形態をとって現れたこと、3.彼らの自主性に立ちはだかる自主性を持った存在が父親しかいなかったこと、などが挙げられる。結果的にこの傾向は「対立そのものが目的」という行動様式に収斂することも多く、佐藤史生も「レギオン」にてそのような達成を見せている。
ところが、聡明な少女の形をとって現れた七生子は、対立のイデオロギーにやすやすと身を任せることなく、かわりに叔父の家の「逃避」を行う。作品を通じて表現される七生子の「ゆらぎ」の正体をほのめかすのが、叔父の家における彼女であり、そこでは閉じ込めたはずの子供の頃の自身が顔を出すことが許されるのだった。しかし七生子自身は、若き自分との再会を自らに容易く許しているわけではない。いわばそれは無意識的な回帰であって、意識の支配する分野――鬼の学級委員長――としての力(=ソトの自身)が、叔父の家での自身(=ウチの自身)に及んでいないことは、彼女にとって不覚の事態だと言える。自分が、真の部分では子供の事から変容していない、と類に指摘され、彼女は怒る。彼女の怒りは、ソトとウチが出会おうとする時の違和感に対する彼女なりの対処法である。鉄面皮のソト面ばかり良い父親が、「それが恋愛というものだ」と妙に生なましいウチの事情を言い放った時、七生子が怒るのもそのためである。
絵の事ばかりを考えて他を省みなかった、ウチ向きの七生子が、自分の意地を通すばかりに母に負担をかけ、自己嫌悪の帰結として、ソト向きの七生子が誕生した。そして、自身の評価を最優先するウチなる七生子は物置に閉じ込められ、皆に好かれ他人からの評価を重んじるソトの七生子で通している。とはいえ、家の中でもソトを貫く父親のようになるのは行き過ぎに感じられ、かといえども、努力している手前、昔のようにウチ向きのままであるとは思いたくない。七生子はゆらぎの状態にある。

そのような状態ののこのもとに彼女へ揺れる触媒として毎日その一話毎にキャラクターが登場させられている。雨男の類、妹にあたる水絵、マドンナ、そして諸井先生。

類は、昔の七生子の崇拝者であり、今の七生子に昔のウチ向きな七生子を肯定させる。

七生子 小さな七生子を 物置から出してやろうか……

水絵は、七生子が苦手に感じていた、ソト側の父 彬彦(あきひこ)を肯定させる結果をもたらす。
マドンナとの出会いを経て、七生子は他人を融合させることに成功し、1枚の絵を描き出す。
そして、ついに諸井先生から、諸井先生とも、叔父の公春とも似ているが、正反対の精神を持った人物として見出されることとなる。子供の七生子と、今の七生子が合致したハイブリッドな存在として。

「彼はぼくを軽蔑していた ぼくがあまりに彼に似ていたもので また似ているという理由で彼を愛し求めたので」
「なぜ……自分を愛してくれる人を軽蔑したりするんです?」
「あまりに深く自分自身を憎んでいたからね」

彼と、物置にいる七生子は、同じ経験をしたもの同士であるにもかかわらず、七生子はもはや、子供でもなく、まじめな委員長でもなかった。彼女は、まったく別の方法で、諸井と公春を救うことになるが、同時にそれは、水絵が公春につかまったようなことは、もう七生子の身には起こり得ないことを意味していた。七生子は諸井に捕まる必要のない存在になったのだ。


追悼文にも書いたとおり、佐藤史生は、私の知る限り最も単刀直入に「自身の否定」や「自身の嫌悪」という主題と向き合った作家である。そのようなバックボーンがなければ、なぜ、わざわざ少年を主人公に、SFやらファンタジーを読まなくてはならなくてはならなかったのだろうか?私は彼女の正直さを愛するが、それゆえに彼女が怖い。


この作品に描かれている、理性に裏打ちされた、分別のある態度には、いささかの寂しさを感じる。地に足が着きすぎているのだ。萩尾望都の読書体験は、沈むといっては何だが、引きずり回され、巻き込まれ、堕とされる体験である。佐藤の、自らを破滅させそうな鋭い知性を、一部もてあましながらも、過度なナルシシズムを感じさせず、好感持てるキャラクターを描く手法が見事過ぎるのだ。「死せる王女のための孔雀舞」は、誰もが子供の頃に持っていた自己中心的な世界観を、世界に折り合いをつけ始めた自身の中に再生させようとする、魅力的な試みであった。単なる成長物語として読むには、言葉の端々が鋭すぎて、いつまでも心が痛い。