吉野朔実『エキセントリクス』巻末解説における黒田硫黄と守中高明の「絶望的なまでのすれ違いという相似」は何故起こったのか、『少年は荒野をめざす』『ジュリエットの卵』を引きながら考える、そして『恋愛的瞬間』と少女漫画について(メモ)

lepantoh2006-10-22

少女漫画評論界において「多様である」もしくは「多数である」ということの価値を認める動きが盛んであることは、そして私もその波に半ば自覚的に乗って少女漫画礼賛を続けてきたことは、この日記を読んでいる人なら察しているかもしれない。察していなくてもそうなのである、ソースは面倒なので記さない。
わたしは天邪鬼なので、流行ってくるとその流れに異議を唱えたくなることも多々あるのだが、そもそもこの流れは可視化されているのだろうか。多きな流れとして存在することは知っていても、その発端がどこにあるのかを説得力を持って語ったひとはいないし、またその代表作や顕現の仕方、評価の是非も論者によって多種多様である。とにかく吉野朔実の『ジュリエットの卵』を読んでいたら、そんなことを考えてしまったので未来の自分に言付けておく。文体はそれゆえ読みにくいことを目指す。

ここでは、母―息子の近親姦的な*1が、兄弟―姉妹の近親姦的な*2と競合し、その障害物となる。この二種類の対の間の関係は、平和なものではない。『ジュリエットの卵』では、このタテの対とヨコの対との対立構造は、異性愛heterosexualityの装置によって自動的に――自明のものとして――ビルトインされている。(赤字強調引用者)
上野千鶴子『発情装置』p.138

最近は歳のせいかこういう文章を見ると泣けてくる。まぁ上野氏の誤読のうちではマシなほうだが。
このように上野千鶴子は『ジュリエットの卵』を分身的な双子の近親相姦物語として読んだようだ。ちなみに、「分身としての双子」を示すために氏が前掲書で引用した文章は物語の前半に集中しており、「引用」として文脈的な正しさを得ていないばかりか、後半の物語の流れを全く押さえておらず作品の趣旨を勘違いしていることは言うまでもない。
『ジュリエットの卵』は、大業な伏線こそないが、美しく構成された論理的な物語である。しかし、それを解説するには『エキセントリクス』における解説の相違から入るのが最適だと信じる。以下の解説は上野氏のような決定的な誤読から導かれたものではなく、見解の相違と言ってよいレベルのものである。すなわち、わたしはこの意見のすれ違いを歓迎する。

私にも生年月日が全く同じ女のきょうだいがおります。(中略)
吉野さんの漫画には双子がよく登場します。双子について何かあるなと感じさせます。漫画の双子というものは、「すりかわり」のトリックか、うかつにキャラクターを殺してしまった時の免罪符として有用ですが、そのような利便性への着目とは別の流れがあり、吉野さんは最近は寂しくなってしまったその後者の流れを汲む一人ではないかと思います。
『エキセントリクス』で「すりかわり」を演じた山田兄弟も、トリックが彼らの目的ではありません。彼らの言いぐさは昔のSFに出てくる「種全体が一つの意識を持つ異星生物」を思い出させます。体験やめぐりあわせが結局二人を分けてゆくときも、それは苦しみになります。一方の千寿も一人の内に二つの人格をはらんでいます。同じ姿のもう一人の自分。一人で双子。そういったバリエーションを含めると、吉野さんの作品のほとんどに双子は登場しています。
吉野さんの双子は、「同じ人は一人しかいない」というこの世の大前提を穿つための錐です。
『エキセントリクス』文庫版第1巻 巻末エッセイ「双子」 黒田硫黄

黒田のこの文章を2巻の守中エッセイと比較してみると、黒田の言わんとすることがよくわかる。

あらゆる二分法はどこか胡散臭いものだし、それどころか、ときに現実を裏切る暴力となりかねない。だが、そのことを知りつつ、ひそかな確信をこめて言い切ってしまえば、この世界には二種類の人間がいると私は思う。(中略)
吉野朔実が『エキセントリクス』で描きだしているのは、そんな回帰と反復の経験としての生にほかならない。記憶を失ったヒロイン「千寿」、そして彼女をサポートする登場人物たちは、誰もが世界のリアリティを目的論的秩序の外部に感じている。それは、言い換えれば、世界の真実を同一性のうちには、さらには〈一〉という統一性のうちには見出さないということだ
実際、この作品における支配的な数が〈二〉であることは明らかだ
『エキセントリクス』文庫版第2巻 巻末エッセイ「反復の掟」 守中高明

守中のエッセイは、上野の見解にひどく似て狭窄だ。黒田は自らの『ジュリエットの卵』的な出生を、その良さも悪さも踏みしめて語る。そして、吉野作品の双子は作家による利便性とは切り離された存在だと分類する。そこで、黒田は「一つの意識を持つ山田兄弟」と「二人のふるまいをする千寿」を同列に語り、そこに「同じ人が2人存在しうる妙」を見出す。一方の守中は〈二〉を肯定するあまり、山田兄弟が〈一つである〉ことにこだわったこと、そしてそれゆえに破綻したこと、を、彼の論理に組み込めない。
黒田硫黄は、ひとつである2人の人間という吉野作品の大前提を、曖昧な言葉で的確に表している。いっぽうの守中は、文章の頭でこそ二分法に胡散臭さをしめしながら、結局はあまりに明瞭な言葉で作品を語りすぎたゆえに齟齬をきたす。2人は同じ点に着目しているにもかかわらず、このすれ違いは絶望的ですらある。


なぜなら。
おそらく黒田の読みすら完全ではないからだ。『エキセントリクス』とは、一つであろうとした双子が、二つであろうとした少女によって〈1を志す2〉から〈1+1=2〉に分離させられる物語であり、つまり、その作品における関係性はつねに、千寿−天−劫の3であったからだ。その3を見逃して、彼女の作品の評論は成立しえないのではないか。


『ジュリエットの卵』もまったく同じである。過剰なまでの同一性を持つ双子の恋人、蛍と水。蛍は水以外の男性をつねに拒絶してきた。ところが蛍は「下田」を発見してしまう。自分の容姿が美しいからといって言い寄ったり口説いたりしない男性。一方の水は女性であれば誰とでも関係を持った。ところが、結局のところ彼が認識するのは蛍だけであった。よって水には蛍が築こうとする関係が、3という数字が全く理解できない。
この会話もまた、その認識の差異から絶望的なまでにすれ違う。

「シモダだな! あいつのほうがいいんだな!」
「ミナトを愛してる。だからこそ下田さんが必要なの」

『ジュリエットの卵』は、そこにいたるまでの経緯を完璧に表現している。

  • なぜ蛍は男性に誘われるとじんましんが出るのか

蛍は「奥さんがいて夜貴子って人がいてって 私 そんな人嫌なの 気持ち悪いの!」と言う。つまり、この時の蛍は1対1の関係を維持できない人間に我慢できない。そして、水がそういう人間だと知ると、またじんましんが起こる。ただし、菊池の話を聞いて、女遊びの激しい水との共通点を見て「この人は水だわ」と思い、キスされること(=自分も同じレベルに身を堕とす)ことでそれを乗り越える。蛍はどんなに相容れない考えであろうと、水のものならば受容する。しかし、根本的な彼女の“自分に群がる男ども”嫌いはラストまで続く。

  • 水はなぜ失敗したのか

ひとつは妙子先生と寝なかったから。寝れなかったんだけど。それゆえ、彼にとって蛍以外の女性は「どうでもいい」ままであり、自分は第3の「魅力的」な女性を見つけることが出来なかった。
もうひとつは父親が誰であるかを水だけが知ってしまったから。出生の秘密は彼らがあたためるべき不幸の最たるものであったが、それを蛍とは共有しなかったため、蛍は水から独立することを可能にしてしまった。
双子は不均衡ではならない。水がしたことは蛍も、蛍のしたことは水もしなくてはならなかったのだ。

  • なぜ蛍は下田を選んだのか

ひとつの理由に下田が妙子先生のことが好きだったからというのは外せない。ここでも3、もしくは4という関係性が志向されている。


これらの説にもっともな説得力を持たせるのに引くべき作品は『恋愛的瞬間』であろう。おそらく私が最も好きな吉野作品には私の大好きな女性キャラクターが2人もでてくる。かしこと撫子。終った恋しか始められないかしこと、恋を始める気すらない撫子。
かしこは誰か他人を自分の側に置いておきたい性分だが、その人とべったりな依存関係になるのを恐れている。それゆえいつもレベルの低い男と付き合い、結果いつも振られている。彼女は新しく、「恋人がいる」という正体不明の男と付き合う。「初めから終っている恋」を享受する彼女は、3人目としての自分にしか安心できない。
撫子は精神的にはレズビアン、肉体的にはヘテロであることに悩んでいる。好みの女の子を見つけると、その彼氏を寝取って自分の欲望を満たす。撫子の恋はつねに3人目として始まる。
言うまでもなく、このような説明は、『ジュリエットの卵』の前半だけを引いた上野のような不完全な説明だ。2人とも結局は新しい恋人を見つけることに成功する。それも、私に言わせれば最高にお似合いの、かしこには「嘘つきの恋人」が、そして撫子には男友達に執着しながら女遊びをする「最低の恋人」が。すなわち、『ジュリエット〜』と『エキセントリクス』で失敗した、3を志すがゆえの〈1を志す2〉の破滅、という物語から、3を志す1が〈1+1=2〉に帰結するまでの物語、へと描く対象が移行している。それ自体は問題の解決ではないが、失敗ばかりを描いてきた吉野作品にとっては進歩といえるのではないか。そう、少女漫画の特徴は「失敗を描く物語」が多いことだ。それを誤解して「物語が失敗している」という人や、それを見据えず作品の前半だけを批評する人や、はたまた〈二〉がどうたらとか言う人が多いのは悲しいことだけれど。





ただし、吉野がこれらの作品でつねに問題とする「精神と肉体の分離」に関してはまだまだ一考の余地がある(というか、彼女の作品を全部読んでいないので何ともいえないのだが)。
肉体的には他の女性が好きだが、精神的には蛍が好きな水。
肉体的には劫と、精神的には天とつるむ千寿。
肉体的には男と、精神的には女と恋愛する撫子。
分離は統合を目指さない。


あれ? 『少年は荒野をめざす』に言及する暇がなくなってしまった。まああれも同じである。陸と狩野の関係に、陸側には鳥子が、狩野側には日夏が関わってくるのだから。わたしが言いたかったのはこれである。「なんだかんだいって、批評する側こそが二分法に囚われているのだ」。『ジュリエットの卵』にヘテロセクシュアリティを見出すなんて、いささか気の毒ですらある。
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*1:引用者注:母親と水のこと

*2:水と蛍のこと