「コリオレイナス」はつまらないが、同席した人の吐く息が面白い件

映画館での舞台ライブビューイングで舞台文化はどうなる

今をときめくトム・ヒドルストンがドンマーで演じた『コリオレイナス』が、『フランケンシュタイン』に続き日本の映画館で上映された。とは言え実際は海外ではリアルタイム上映されていたので、ずいぶん遅い公開と見ることもできる。
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実際にオペラやバレエの世界で行われるライブビューイングも時差や字幕の関係で、日本では遅れることが多いようだ(それにしてもコリオレイナスの字幕は酷かった)。世界的なこの潮流の切っ掛けはNYメトロポリタン・オペラの総裁ピーター・ゲルブに負う所が多い。 ピーター・ゲルブはMETのオペラを電子複製し、より安い価格で、わざわざNYまで足を運ばなくても見れる環境を提供した。その賭けによってMETのリアル観客数は......増加した。このことは生の舞台芸術について、いくつかのことを示唆している。


1:リアルの演劇には複製にはない価値があることを認め、より多くのお金を払う観客層が存在する。
2:リアルの演劇により高額な金額を払う層を増加させるために、入り口としての安価な複製は有効である。
3:増加数が十分であれば、新規にリアルを求める観客層は、安価な複製に流れる既存の顧客数を上回るため、収益が向上し、またファン層も増えるため、芸術にプラスの利益をもたらす。
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さて、今年のイギリス演劇の公開はこれとは逆のプロセスが実現したと言えるだろう。

イギリス俳優ブームとライブビューイングの幸福な帰結


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イギリスには元来豊かな劇場文化があり、アメリカの俳優が基本的には舞台/ドラマ/映画を行き来しないのにくらべ、イギリスは日本と同じようにこの3つを頻繁に行き来する。しかし、イギリス人の俳優は英語の力で元々世界的なスターも多く、映画で世界的な知名度を誇るスター俳優が小さい舞台に立つとなると、日本人の私ですらビックリすることも多い。その極端な例が『コリオレイナス』であり、世界興行収入3位の『アベンジャーズ』で悪役ロキを演じたトム・ヒドルストンのみならず、『シャーロック』でマイクロフトを演じたマーク・ゲイティスまで出演し、客席数はたったの250席、元はバナナ倉庫のドンマーでの上映。『フランケンシュタイン』に加え『コリオレイナス』もこういった条件が重なったことから、日本の映画館での上映に結びついたことは容易に想像できる。

やはりマイナー作はいくらシェイクスピアとはいえつまらない


ところが結局のところ、『コリオレイナス』があまり面白くないのである。蜷川さんが2012年、ロンドンオリンピックに合わせて開催されたシェイクスピア・フェスティバルに更に上映回数の少ない『シンベリン』を持っていったが、不人気作にはそれなりの理由があると改めて感じさせる作品だった。つまらないと感じたのは、感情を置いてきぼりにする場面が、感情を揺さぶられ引っ張られるシーンよりも多く見られたから、これにつきる。具体的には、3回のプロットツイスト。これがすべて不自然極まりないと言える。
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その3回とは、
1、コリオレイナスの追放
2、コリオレイナスの母の説得への屈伏
3、仇敵オーフィディアスのコリオレイナスの唐突な受容(これが一番酷い)
の3つである。


1と3はまだ、議論の余地がある。そこに至るまでの道筋の演技、演出で印象が大きく左右されるからだ。
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1、コリオレイナスの追放 については、その前のコリオレイナスの執政官になるための選挙活動に民衆が不信感を持つことに端を発する。ここでのコリオレイナスと民衆の心情の解釈はとても難しい。私が見た限り、トム・ヒドルストンはとても上手く演じていた。 笑いが起きるような、ユーモアに溢れたコリオレイナス。その裏側には、執政官になりたいという思いはあまり感じられず、トム・ヒドルストンが演じたことで、生真面目さ、国への彼なりの忠誠心のようなものが裏にあるのではないかと感じさせた。 一方で民衆側の心理の変化が解りやすかったのは映画版コリオレイナスこと邦題『英雄の証明』である。一体いつからーー舞台版の話だけをしていると錯覚していた? 映画版では選挙運動でコリオレイナスが愛嬌のない嫌なやつなので、民衆が誤解して当然という気がした。


2、コリオレイナスの母への屈伏、これには議論の余地はない。母へ屈伏することは構わない。問題はコリオレイナスが身体に国のための傷を負うことに誇りを感じていたのが母親その人であり、それがコリオレイナスの戦いに身を投じたがる気性に大きく影響していると考えられるのに、母自身には大きな変化が見られず、それに見合った罰も与えられているように思われないことである。結果として、正しかろうが間違っていようが母は強し、といった印象しか抱くことが出来ず、消化不良の感を強くする。凡庸な評だが、カタルシスがない。
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2、オーフィディアスのコリオレイナス受容 も、何も最高の妻と結婚した時よりも胸が高鳴る、まで言わなくても良いと思う。急激な転向に腰抜けで、一体今までの確執はなんだったのかと自分の目と耳を疑う。しかしまあ、舞台版ではオーフィディアスとコリオレイナスが口づけをするなど、それに見合った演出がなされていたのは良かった。 映画版でのレイフ・ファインズジェラルド・バトラーにはそんな雰囲気はなし。ジェラルド・バトラーはなかなか良かったと思うのだけど、発間と臭くでもあるレイフ・ファインズはスキンヘッドでコリオレイナスを演じていてずっと仏頂面で、私は魅力を感じなかった。 トム・ヒドルストンは線が細い印象があるので、ロキ役も完全なハマり役とも言えないのだけど、彼自身の落ち着いた知的な雰囲気が、悪役に陰を与えたり、何かしらの説得力を持たせるのに十分だと感じる。

悪いのは誰だ?


とは言え、役者に全てを求めるのは酷でもある。結局のところ、冒頭で述べたとおり、複製芸術よりもライブの舞台の方が何倍も高くても、「高くても良いから生観劇」という人は多いのだ。自分もその一人。その理由の一つを、ライブビューイングという形式が教えてくれた気がする。私はこう考えている。 アル演劇の面白さは、役者の質、演出の巧みさもさることながら、隣の席にいる観客の存在なのではないかと。彼らは受容体(アクセプター)として、演じられたものの意図に関わらず、様々な反応を示す。そこで最も顕著なのが笑いである。 映画版『英雄の証明』はピクリとも笑えない。一方でライブビューイングの舞台版『コリオレイナス』は、銀幕の中の劇場も、そしてその反射をみている私たちも、笑ってしまうようなシーンが所々にあった。なお、この点でマーク・ゲイティスはやっぱり巧かったことを付け加えておこう。 もちろん私は、観客の顔をまじまじと見続けて観劇したわけではない。あくまで、彼ら・彼女らが醸し出した空気に、気持ちよく乗っかることが出来た、というだけの話だ。しかしこれこそ観劇の醍醐味ではないか。



これが役者の力量によるものではないと考える理由は、トム・ヒドルストンが主演したBBC制作『ヘンリー5世』にある。私は今まで見たことがあるシェイクスピア劇の中では『ヘンリー5世』が一番好きなのだが、それはHenry Vが清涼感のある英雄譚として上質なだけでなく、随所に笑いがふんだんに含まれているからである。そして、舞台版コリオレイナスではユーモアを感じさせたトム・ヒドルストンの演じたBBC版『ヘンリー5世』は、これまたやっぱりピクリとも笑えないのである。ついでにローレンス・オリヴィエの映画もいまいち。シャーロックは笑えるけど、やっぱ映像は弱い、弱いんです、私への訴求力が。 ヘンリー5世 [DVD]
私が『ヘンリー5世』を観劇したのは2012年グローブ座のジェイミー・パーカーと、2014年ノエル・カワードジュード・ロウどちらも観客席は爆笑に包まれる。特に最後のキャサリンへの求婚のシーン。あのジュードですら最高に滑稽に見えて、大満足です。
実は、同じ作品を舞台と映画館で見る経験もした。デイヴィッド・テナントの『リチャード2世』である。しかし、リアル/ライブビューイングの落差よりも、舞台作品/映像作品の落差の方が、著しく大きいというのが、『コリオレイナス』『ヘンリー5世』を見た私の印象である。
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コリオレイナス』は、シェイクスピア劇の中で優れているとは言いづらいが、現代に通じる点があり、一見の価値はあるとは感じる。今回の上映では、自分のもう一つの興味、劇の内容よりもそれがどうバラまかれ、どう受容するか、について考えるよいテストとなった。
舞台生観劇>>舞台の映像化を映画館で鑑賞>>上質な映画作品を映画館で鑑賞、ということをすごく感じた。あと私は「映画は映画館で見ないと」みたいなことを言う人はあんまり好きじゃない。frozenも最初は自宅で見ましたがそれはそれで良いもんですよ。
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