『アナと雪の女王』ジェンダーだけじゃない!アナ雪革命を徹底解剖!

アナと雪の女王(以下Frozen)』、大ヒット!本当に嬉しいことです。私も子供の頃ディズニーが好きで、大人になった今もミュージカルが大好きです。13年11月、公開直前にアナハイムのディズニーリゾートを訪れましたが、まだ公開もされていないのにものすごい力の入れよう。イディナ・メンゼルの歌う『レット・イット・ゴー(Let It Go)』が公開される前から夜のショーWorld of Colorに大々的にフィーチャーされておりました。さらにアメリカの劇場で公開されながら、Disney Movie Everywhereの公開と共に米iTunesでいきなりリリース!即、家に帰ってダウンロードし、歓喜の涙に中盤までズブズブでした。早速「私が見たFrozen」のお品書きを。長いのでゆっくり読んでいってくださいね。

1. 『アナと雪の女王』は脱プリンス依存の物語ではない!
2. ”Let It Go”という革命
3. 萩上チキ氏のアナ雪評の“視点のズレ”
4. 「それでいいの 自分を好きになって」とか言わせちゃう奴出てこい
5. 『アナと雪の女王』の一番の改革は「異端」の描き方
6. 共感するための「異」ではない、受け入れるための「異」
7. Fixer UpperなLoveは、Yes/Noくらいがちょうどいいよね
8. アナと雪の女王だってFixer-Upper
9. 将来はディスニーの主人公もゲイに?
10. グッバイ、ピクサーのセオリー!
11.結局Wickedをやりたいディズニー

1. 『アナと雪の女王』は脱プリンス依存の物語ではない!


とにかく、ブログで良く見たのが、「エルサを助けたのが妹で、それが真実の愛で、ビックリした!」というものでした。自分は特にビックリしませんでした。というのも、ディズニーの作品の中では、「助けてくれる王子様(男性)」という設定をがんばって希薄化しようとしており、かの名作『アラジン』で殆どそれが達成されたように思われたため、今更特筆すべきことでもないような気がしたのです。(特筆すべき点は→§3。また驚かなかったもう一つの重大な理由は→§5)
ディスニーは、リトル・マーメイド以降の「第二次黄金期」以降、それぞれの作品で、既存の作品の枠を抜け出す新たな挑戦を続けてきました。

Title 新たな挑戦
リトル・マーメイド 主体的な女性の登場自ら王子に会いにいくため、姿を替え、自分からキスしようとする
美女と野獣 醜い男性と本好きな女性の登場
アラジン 男性主人公が路上生活者で泥棒
ライオン・キング 動物ものへの回帰、アフリカ舞台
ポカホンタス ヨーロッパ文化からの解脱
ムーラン ヨーロッパ文化からの解脱2
ノートルダムの鐘 醜い男性、主人公と女性が結ばれない
塔の上のラプンツェル 3Dアニメでのプリンセスもの

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その中で、Frozenを語るとなれば、最も重要になってくるのは『アラジン』だと考えています。
1、結ばれる男性が王子ではない
2、強大な魔法とそれによる秘密の存在
3、王室を飛び出して主題歌を歌う(自由に憧れるのではなく自由になってから歌う)
4、最後に自分を犠牲にして、相手役以外を幸せにしようとする
5、物語のテーマを一身に引き受ける魔法の生き物の存在

特に4が重要です。Frozenとアラジンは見せ方が全く違いますが、結局、アラジンがジャスミンと結婚するのを諦め、ジーニーに自由を与えるシーンは、アナがクリストフと自分が助かることを諦め、魔人ならぬ魔女エルサを助けるシーンと構造的には全く同じです。違うのは、その行動にどのような意味付けをしたかというところで、Frozenでは「愛」であるという意味付けがされていますが、アラジンでは、アラジンが元々「清い心の持ち主」であることは分かりきったことであったので、ジーニー側の「自由は素晴らしい」という部分が強調されています。
しかし改めて見返すとアラジンと細かい所もそっくりで驚きます。アラジンでも、冒頭の細かい伏線を後半で回収しているところがいくつかありますし(溝鼠時代と偽王子時代に同じしぐさでジャスミンにリンゴを渡すなど)、またアラジンとアブーの関係はクリストフとスヴェンの関係に似ています。良く食べ物をシェアしていますしね。アブーはアラジンを取られそうで嫉妬していますが、クリストフはスヴェンを取られそうになってしまうと嫉妬するというところが違いますが!もちろん、囚われの身というテーマの権化がジーニー、また氷った心と自己犠牲というテーマの権化がオラフなところもそっくりです。クリス・バック監督、ジェニファー・リー監督、シェーン・モリスは相当アラジンを研究したのではないでしょうか。


問題はこれを読み解く側の感性の問題で、王子様じゃない路上生活者のアラジンがジーニーを助けても「アラジンは男性の生き辛さを表現している」「男女ではないところがスゴい」などと言う人はいないのに、つまりすんなり、アラジンは清い心のイイ奴でジーニーはジャスミンを捨ててでも助けるに値すると結論してしまう癖に、アナがエルサを助けると急に「脱王子様の物語だ」「男性が女性を助ける物語の終焉だ」「こんなのはディズニー初だ」とか言ってしまう人のあまりの多さに愕然としました。特に男性。しかもおっさん。お前ら22年前アラジン見なかったのかよ!なんでおっさんが「現代女性の行き辛さを投影している」とか言うんだよ!
かくして、frozen評壇は瞬く間に「アナと雪の女王が何を描いているか」ではなく、「アナと雪の女王に俺が言いたいことをいかに乗せるか」という匂いを、一部の例外を除いてプンプン漂わせるきな臭いものになってしまったのでした。このきな臭さ『鈴木先生』が「こんな時代」とか浜崎あゆみみたいなことばっか言ってたのにそっくりだわ……。様は「第三者が言いたいことを、作品側に勝手に投射している」だけに見えかねないのです。


アナと雪の女王は、ディズニー映画として初めて、いつも最後に持ってきていた「自由になりたい」を、今まで中盤にあった「隠遁生活は素晴らしい」のところに合体させたため、今までのディズニーのセオリーを覆してしまったのです。
そんな冒険の結果として、「異能」「異端」が最後まで生き残るというこれまた今までのディズニーにない終わりを見せます。
これが私の考える『アナ雪革命』の革命たる所以です。


自分はこの部分にあまりにビックリしてしまったので、その後男性に「女性が女性を助けて愛としたからビックリした」と言われるたびに、「何言ってんだろう?」と思ってばかりでした。自分は女性にも男性にも同様に感情移入するタイプで、表現形態が女性だからとか人間だから、自分の悩みをより体現してくれているとはあまり考えません。そうでなければ、24年組が男性を主人公に据えながらもこんなに女性に受け入れられるわけがないと思うのです。(感情移入→§6)

2. ”Let It Go”という革命

さて、今までの「隠遁生活は素晴らしい」=囚われの身である主人公の環境を賛美する歌のリストを、今更ながら挙げてみましょう。(環境を賛美するも、囚われの身ではない作品もあります。シンデレラやピーター・パン、不思議の国のアリスなど)

作品名 隠遁生活礼賛ソング
白雪姫 Heigh Ho!
眠れる森の美女 妖精が部屋を掃除し、服の色で喧嘩するシーンなど
リトル・マーメイド Under the Sea
美女と野獣 特にBe Our Guest
アラジン Friends Like Me, ただし主題歌が自由を賛美するA Whole New World
ライオン・キング Hakuna Matata
ポカホンタス If I never knew you, 賛美とはほど遠く結局映画ではカットされた
ノートルダムの鐘 Topsy Turveyがそれに相当すべきなのだろうが、むしろ隠遁を恥じている
塔の上のラプンツェル When Will My Life Begin?隠遁生活を歌う歌は、賛美ではなく自由を希求する歌に

さて、「黄金期」と呼ばれていたディズニー映画には、楽しい隠遁ソングがお決まりでしたが、そこをやめてしまってからディズニーの凋落が始まります。個人的にはポカホンタスのIf I Never Knew Youという歌は、その前の「君を知って明日死んだ方が、君を知らずに100年生きるより良い」という台詞と合わせて好きですが、そもそも映画版でカットされたので、知っている人は少ないかもしれません。ポカホンタスは後述しますが意欲的作品すぎて、その後ディズニーがヒットの法則を見失ってしまう元凶となってしまったのかもしれません。
逆に考えれば、これらは全てアイロニーで、最後に自由が期待されることから、ディズニーもアメリカ人のステレオタイプのご多分に漏れず、自由が大好きでたまらないのだな、という気もします。アイロニーを楽しく表現するのはミュージカルの常套的手法ですから、驚くには値しませんが、それにしても名曲が多すぎるような…。
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また、「隠遁生活礼賛ソング」の対照をなし、ディズニーにお決まりの物といえば、「隠遁・囚われ身の自由希求ソング」です。

作品名 自由希求ソング
白雪姫 I’m Wishing
眠れる森の美女 I Wonder
シンデレラ Dream is a Wish Your Heart Makes
リトル・マーメイド Part of Your World
美女と野獣 特になし。Belleで王子に憧れる表現はある
アラジン A Whole New World
ライオン・キング I Just Can’t Wait To Be King
ポカホンタス Just Around the Riverbend(とくに隠遁・拘束されているわけではない)
ノートルダムの鐘 Out There
塔の上のラプンツェル When Will My Life Begin?隠遁生活を歌う歌は、賛美ではなく自由を希求する歌に


このように振り返ってみると、ディズニーは、「異端⇔解放」「囚われ⇔自由」というのを形を変えて色々とやってきたんだなと思いますが、とりわけ「アラジン」「ポカホンタス」の印象は強烈ですね。アラジンはもちろん「Trapped=囚われの身」という境遇を、溝鼠と王女がそれぞれ共有しているという前提はありますが、それを最も表しているのがジーニーで、彼が囚われの身ソングを歌うところがヒネリになっています。
アラジンとfrozenの類似性については§1で解説したので、こんどは「ポカホンタス」について考えてみます。
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今までのディズニー作品では、隠遁の生活を送り、その環境が素晴らしいことを周りの御付きの人が楽しく歌い上げてきました。「ポカホンタス」の異常性は、御付きの人ではなくポカホンタス自身がジョン・スミスに「Colors of the Wind」で環境の素晴らしさを歌ってしまうというところです。ここで漸くディズニーの主人公と人気の歌の主語・主体の一致が見られます。しかもポカホンタスはプリンセスなのですが、ジャスミンが婚約者を断ったのと同じ様に、ココアムとの結婚を嫌がりその環境に嫌気が差しています。とはいえなんだかんだでプリンセスなジャスミンに比べ、野生児ポカホンタスはプリンセスであること以上に大事にしている価値観がはっきりしています。ポカホンタスでは色々なことが裏返っていて、それがディズニーファンを面食らわせたのだと思いますが、私は未だにポカホンタスが好きです。彼女の自然の愛し方も、変化への期待の仕方も。ていうか今泣いてます。Colors of the Wind...名曲すぎるやろ…。
ポカホンタスとfrozenの共通点は以下の通りです。
1、主題歌が自ら、環境を誉め称える歌である(アラジンも同様、A Whole New World/Colors Of the Wind, Let It Go)
  ⇔Part Of Your World, Beauty and the Beast, Out There
2、受け入れてもらえない異人の存在
3、異人は主人公と別れる

さて、従来のディズニーでは、序盤〜中盤に囚われの身、終盤に自由という順番でした。ポカホンタスでは、それを若干入れ替え、序盤〜中盤に自然という自由を提示し、物語佳境で恋人を拘束させ、終盤には、自由云々というよりは、元いた環境へ留まるという選択を行います。このプロットは大変frozenに似ているのですが、唯一、「大事な人との別れを選ぶ」、つまりエルサが王国を去るところが物語の中盤に来ているという違いがあります。

さて、皆様そろそろお気づきかと思いますが、それが重要です。

「Let It Go」は、「隠遁生活礼賛ソング」と「自由希求ソング」を一緒にやってしまいました。しかも、物語の中盤で。
そのため、「一人で生きる」というディズニー史上初めてとなるスゴすぎる決断をエルサが自らの意思で下す様が描かれます*1
その切なさ、高貴さ、やるせなさ、強さ、解放感に、私たちは虜になってしまったのです。
しかも、今までは自由になりたいというフラストレーションの歌だったのに、ついに自由になってしまったのです!!
こんなの、A Whole New World以来の爽快感です。
駄目だよディズニー…その2つを混ぜちゃうと…もうもとには戻れないよ!!I can’t go back to where I used be!

まぁもっと混ぜると美味しい物があるんですけどね。それをディズニーは敢えてやりませんでした。そのあたりは→§11で。

3. 萩上チキ氏のアナ雪評の“視点のズレ” あるいはアナ=ハンス=馬論


さて、アナとエルサが同一人物であるという論もありますが、あながち外れてはいないと思います。雪の女王はFrozenでは悪役として設定されたそうですが、とはいえ姉妹にしてより一層、現代の女性が抱える問題を反映しやすくなっている面は否定できません。(→§)どちらかというとクリストフの方が分かりやすく分裂していると思いますけどね、スヴェンと。またオラフはエルサの分身でしょうね。
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しかし、敢えて、私は、アナはハンスである、という説を提示したいと思います。
なぜなら、私はこの物語を、Let It Goを契機に、それまであったプロットが鏡のように逆さ映りになってもう一度再生される、折り返し型の物語だ、と考えているからです。
Let It Goに置いて逆さまになったものを列記してみます。
1、ディスニーにおける「異端能力者が、能力を隠し、それを主役級と観客とだけ共有する」という秘密の崩壊(→§4,5)
2、ハンスの行動ををアナが繰り返す(役割の反転)
3、アナ⇔ハンスのYes⇔Yesで始まる関係から、アナ⇔クリストフのNo⇔Noから始まる関係(関係性の反転)

とりわけ重要なのは2、です。2、3に共通して言えることですが、Let It Go以降、アナとハンスの出会いを、アナとクリストフがなぞるように繰り返すこととなります(チキ氏も繰り返しについては言及しています。そんじゃーね)。しかしその際、②の関係性が反転した部分と、③の役割が反転した部分が混在しているため、見分け辛いのです。
Let It Goより前には、ハンスという鏡、仮面の王子が“完璧な王子役をこなしています”。もちろんそれは仮初めの姿であり、本来はそんな人間ではないのですが……しかし、エルサがいなくなり、アナはハンスの馬に乗ってエルサを探しにいってしまいます。しかし、アナが乗る馬はなぜハンスの馬でしょうか?もちろんハンスの策略かもしれません。また後述する、萩上チキ氏が指摘したハンスと馬の関係に関連があるのかもしれません。しかし、こういう考え方をすることも出来るのではないでしょうか。
アナが白馬の王子様になった……と。
その証拠に、アナが馬に乗ってから、アナはハンスと同じ行動を取り始めるのです。下記を参照ください。

Let It Go以前(主語はハンス。王子様役) Let It Go以後(主語はアナ。王子様役)
ハンスがNothing is in my wayを歌うアナを邪魔する アナがニンジンを探すクリストフを邪魔する、その後スヴェンに歌うクリストフを邪魔する
ハンスがアナに怪我をしたかと質問する(答えはNo) アナが北の山について質問する(答えはYes)
ハンスが馬の所為で粗相をし、気まずい空気になる アナがスヴェンのニンジンを投げるのに失敗する
ハンスの前からアナが急いで立ち去る アナの前からクリストフが追い出され、アナが追うことに
アナが姉の言葉に寂しさを抑えきれず泣きそうなところ、ハンスが倒れたアナの手を掴む アナがソリから落ちたクリストフを助けるためオオカミに火藁を投げる、崖から落ちそうになるクリストフにピッケルを投げる
ハンスは話に夢中のアナに顔に手をぶつけられる アナはソリに夢中のクリストフに顔にツバをかけられる

つまりこれは、暗にアナに今までの王子様的役割を果たさせていることになります。アナと雪の女王は、王子様を必要としない姉妹愛の物語なのではなくて、アナが王子と同じ様に、一人の自立した、自律する女性として成長する物語なのです。なお、アナは前方不注意かつノーコンというFixer Upperの持ち主ですが→§8、クリストフを助ける火藁とピッケルだけなぜか成功しています。ここでもアナの成長、およびプリンスという属性を一時的に纏っている姿を見て取ることができるでしょう。
ちなみに、ここでのハンスとクリストフはプリンセスです。きゃっ。ハンスは今までの王子と結婚しようとしていた主人公たちの悪い面を引き継いでいます。一応今までのディズニー平民主人公たちは、その意思がなくたまたま好きになったのが王家の一員だったということになっています(アリエル、ベル)。しかしハンスはそれを意図的にやろうとしているのです。そういった例は男性ではアラジン/ジャファーを除けば他になく、どちらかというと旧来のディズニー隠居/平民プリンセスのメンタリティを受け継いでいます。また、クリストフにもプリンセスな一面はあります。まず、もともと不遇で誰かの助けを待っていた状況だったこと。かつての隠居ヒロインよろしく不思議な生物に匿われて育ったこと。しかしそれ以上に、クリストフは、エンディングでキスをしてもいいか尋ねる時に、May I? We me?May we?と緊張で訳がわからなくなってWait, what?と自身に問いかけています。これはアナが最初にハンスにあった時に、You are gorgeous. Wait, what? と問いかけているのと同じなのです。詳しくは→§8.
私の見立てでは、ディズニーはあくまで、ジェンダーロールを入れ替えようとしたのではなく、だれがどっちをやったっていいじゃんと思わせようとしているのだと思います。実際、Do You Wanna~でアナがジャンヌ・ダルクの絵を見て「Hang in there Joan」というシーンがありますが、オラフがマシュマロウの攻撃を受け崖から落ちる時、アナとクリストフに「Hang in there, guys!」と言っています。2人まとめてジャンヌ・ダルクになぞらえる所などから、ジェンダーロールの解放を感じることができます。


同様に③も重要です。Yes⇔Yesの関係とは、つまりツーツーのツーカーということなのですが、悪く言えば猿真似人形、傀儡、鏡写しということです。ハンスは鏡から発展したキャラクターですから、周りと同じシンクロした行動をとり続けています。アナがこうあってほしいという欲望そのままの人間で、アナの言うことに全て同意します。*2
萩上チキ氏のアナ雪評は「決定版」とも言われています。確かに、2回見ただけなのに目の付け所は素晴らしい!多いに参考にさせていただきました。しかし、ハンスと馬の関係については多いに疑義があります。さらに同様の関係はハンスと馬の間でも築かれています。荻上チキさんは、ハンスは馬を虐待していたかもしれないと言いますが、とんでもない。着眼点はいいですが、読み取り方が間違っています。馬はハンスと全く同じ行動を取っているのです。ハンスと馬の関係はYes-Yesの関係で、ハンスがやった事を馬が真似てしまうからいけないのです。ハンスがお辞儀をすればお辞儀をする。それで上手く行かないのは、ハンスと馬の仲が上手く行っていないということを示唆したいのではなくて、鏡写しのような、Yes⇔Yesの関係だと人間でも動物でも破綻するよ、ということを言いたいわけです。だからアナが運命の人を捜しているところにポッと現れてすぐ求婚してくれるなど、お互いがYes⇔Yesでハッピーになっている様に見えますが、アナがI'm completely ordinary.と本当はYesで返してはいけないところもThat's right, she isと言ってしまい齟齬が生じています。

一方で、エルサと父親の関係、および出会った頃のアナとクリストフの関係はNo⇔Noの関係です。クリストフとアナの経緯はハンスとアナのそれをなぞっていますから、きっちり対称になっています。
LIG以前はYes⇔Yesだったものが変化した部分を抜き出してみました。

Let It Go以前のYes⇔Yesの関係 Let It Go以後逆転しNo⇔Noの関係に
ハンスがアナに怪我をしたかと質問する(答えはNo) アナが北の山について質問する(答えはYes)
ハンスの馬がハンスと全く同じ行動をする スヴェンがクリストフの歌に対して、「君を除けばその通りさ」と皮肉で返答する※これはYes/Noの関係です。オマケで入れました。
アナがハンスに王女だと自己紹介する アナがクリストフの仕事に皮肉を言う
ハンスが王女だと聞いてかしこまる クリストフがアナを厩育ちかと尋ねる
ハンスは何もいわずアナと踊り始める クリストフがアナの頼みを聞く耳を持たず断る
手を掴んでくれたハンスの名前を覚えている アナがクリストフの名前を間違える
ハンスが兄弟が無視をしている話をし、アナが同意する クリストフがLove Expertの友人について話し、アナが否定する
アナがcrazyな話をしたがり、ハンスが受け入れる アナがハンスの話をするが、クリストフが出会った男との婚約を否定する。アナが話そうとするが、クリストフが止める。アナがクリストフを助けようとするが、判断が信用できないと断られる
アナがハンスと歌いながらドアを開ける。 クリストフは一人でスヴェンに歌っている。扉は閉まっており鍵だけが開いている。アナが扉を開ける。
アナがハンスのプロポーズを受け入れる(人生に関わること) アナがオラフに真実を告げるのを止める(オラフの生命に関わること)、アナが氷の城にクリストフとオラフが同行するのを拒む(氷はクリストフのlifeなのに)

最初のうちは、これでもかというくらいお互いの意見や主張が噛み合ないアナとクリストフの関係性が浮かび上がってくると思います。クリストフはさすがに「His things with Reindeer」効果でスヴェンとは相性抜群ですが、ここにはハンスと馬のYes⇔Yesの同調関係には見られない不思議な関係が見られます。「トナカイの方が人間よりもいい」という極端な論に、スヴェンは「君以外その通り」、「人間の方がトナカイよりいい匂い」と歌うクリストフに、やはりスヴェンは「君以外その通り」と、部分肯定・部分否定を返しているわけです。
実はこれこそがこの映画で目指されているYes/Noという関係性だったりするのですが、そうすると愛してやまない名曲Fixer Upperやエンディングの方に飛んでしまうため、そちらは§7に譲るとして、いっぺんLet It Goに進みたいと思います。
なお、クリストフとアナの関係はオラフ登場でまたひっくり返り、そこでまた物語がパタッと折り返されます。アナが無理をして壁を登ろうとするあたりからアナの無鉄砲さ、恐れのなさ、姉思いなところ、ユーモア、クリストフへの無条件の信頼などを感じてアナに好意を持ち始めたようです。直前ではOf course I don’t want to help her anymoreと言っているのに、壁を登る時には助けようとしてくれます。アナも、クリストフの言うことに否定がちだったのを改め、氷の城を見て泣いちゃいそうな、言ってしまえばやや女々しいクリストフをGo ahead, I won’t judgeといって受け入れ始めます


4. 「それでいいの 自分を好きになって」とか言わせちゃう奴出てこい

さて、そのLet It Goですが、複数の意味を示唆する、非常に「あいまいな」語となっています。よって、翻訳版では、前半のLet It Goと後半のLet It Goに別の訳語を当てることで、その意味の多重性を浮かび上がらせようとする試みが見られます。例えば、ドイツ語版でも、最初はIch lass’ los, jetzt las’ los = I let go, now let goと歌っているのですが、氷の城を建ててからはIch bin frei, endlich frei = I’m free, finally freeと歌っています。とは言え、Let It Goの中でもI’m freeという歌詞が出てくること、またDo You Wanna Build a Snowman? RepriseではYes I’m alone but I’m alone and freeとエルサが歌うことから、重要な単語であることがわかります。
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で、問題は、「それでいいの 自分を好きになって」なのです。何が問題か、結論から言いますと、これも§1で問題提起している、「第三者が言いたいことを、作品側に勝手に投射している」だけにしか思えないのです。作品の中で、2度、3度と繰り返されるモチーフではなく、「自分を好きになって」などという頓珍漢な歌詞を当てる。訳者の、「どうせ現在女性は、自分のことが肯定できなくて、悩んじゃったりしてるんでしょ〜?」という嫌らしい考えが伝播してきそうでとても嫌です。だいきらいです。同じ様な自己否定感を題材とするなら、パビーから既に提示されている「恐れ」を使って、「もう怖がらないわ」、また、原詞(When I rise and break the dawn)に則り、今までの常夏のアレンデールを敢えて夜に例え、雪に閉ざされた孤独な王国を”夜明け”とまで称するエルサ様の誇り高き心情を少しでも汲んで(あ、あれ、俺…泣いてる?)、「夜はもう明けたわ」などと訳してくれないものでしょうか。

また、萩上チキさんが、物語の中で3回繰り返されることが重要と書かれていますが、私はこの物語を、ある時点を基点に折り返す反復の物語を読んでいるため、繰り返しの回数は2回でも重要な物はあると捉えています。もちろん、3回繰り返される物もあり、アナのノーコンのように、何度も繰り返される物のあります。
また、作曲家たちはキーワードをありとあらゆる場面に鏤めており、冒頭の「Cold Heart」から、Let It Go, Frozen Heartなど、重要な単語が歌詞に取り込まれています。
あまりに繰り返しが多いため、私はむしろ、「あまり繰り返されていない物こそ、そのオリジナリティから、重要なのではないか」と考える様になりました。それゆえ、Fixer Upperは大変重要なのですが、Let It Goにもわずかながら、他の歌(地の文ではなく歌詞)には含まれていない部分があります。
そこから、“一体何をLet It Goするのか”を改めて考えてみました。

1、力をLet It Goする

  • Let it go, let it go /Can't hold it back anymore
  • It's time to see what I can do / To test the limits and break through
  • My power flurries through the air into the ground
  • My soul is spiraling in frozen fractals all around
  • And one thought crystallizes like an icy blast

2、自分を縛っていたものをLet It Goする

  • No right, no wrong, no rules for me /I'm free
  • Let it go, let it go/ I am one with the wind and sky

3、弱い自分をLet It Goする

  • The kingdom of isolation / and it looks like I'm a queen
  • Let it go, let it go / You'll never see me cry

4、自分の中に渦巻いていた、両親を奪った恐れと拘束の象徴の嵐をLet It Goする

Here I stand and here I'll stay
Let the storm rage on

5、過去をLet It Goする

I'm never going back, the past is in the past

6、他人の言うことに縛られていた自分をLet It Goする

That perfect girl is gone

やっぱり、「自分を好きになって」という訳は嫌いですね。

5.「アナと雪の女王」の改革の結果変わったのは「異端」の描き方

もう1つ私が大変驚いたのは、最後にエルサの能力がそのまま残っていたことです。な、なんというLet it go!「塔の上のラプンツェル(Tangled)」で、集中治療室がどうのこうの、国際基督教大学がどうのこうのという意味不明な主題歌*3に魂を抜かれて、気がついたらラプンツェルの髪の毛を切られてしまった時の「ま、またかよ!」という、私が感じた、匙を投げてしまいたくなる憤りを、あっさりここで解決してしまうとは!
これこそディズニーがずっとなし得なかったことではないのでしょうか!
よくよく考えてみてください。今までずっと、ディズニーのキャラクターたちは、物語の終盤で彼らのCharacter=特徴を手放してきました。正確には手放す振りをしてきました。
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Title 物語中盤での代償 結末(と代償)
リトル・マーメイド 声を失う 人魚の足びれを失い人間の姿を得る
美女と野獣 父と自分の自由を失う 野獣が人間の姿を得る
アラジン 自分が王子であると偽り、バレる ジーニーが自由になる
ポカホンタス 部族に嘘をつきジョン・スミスと逢瀬を重ねた結果、ココアムが事故死し、ジョン・スミスが拘束される 帰国するジョン・スミスとの別離を選ぶ(続編で渡英)
塔の上のラプンツェル お尋ね者と一緒に城を目指す 髪を切られる

多くのディズニー映画が最後には普通に戻るキャラクターを擁しているのに、パークに行って私たちが見るのは、大抵は人魚の姿のアリエル、野獣の姿の野獣、ランプの精のまんまのジーニー、髪が長いラプンツェルでした。一体何が、彼らを元の姿に押し戻してきたのでしょうか。私たちは一体、彼らの何に惹き付けられているのでしょうか。
私は、このように考えます。
1、私たちは、彼らの異端さを、少なくとも、虚構の世界では好意的に受け止める。
2、さらに、その異端さを『秘密にすること』を彼らと共有することで、仲間意識を抱く。
3、観客は、異端さや、さまざまなことを発端とした主人公たちの『悩み苦しみ』を通して、主人公たちに自分を投影している。(=感情移入している)

この③が私が、『アナと雪の女王』を見て、§1に書いた通り、ジェンダーなど関係なく、今までディズニーキャラクターが広く人々に受け入れられてきた理由だと思っています。
やっぱりfrozenをジェンダーのみの視点から見ようとするのは視野狭窄、筋悪としか思えませんね。

6. 共感するための「異」ではない、受け入れるための「異」

上記にある通り、私たちは1&2何か突出したものをみてそれに憧れる心と、3苦境にある姿を見て自分と同じだと共感する心、という相反する様態を種々の芸術作品に抱きます。初期のディズニー作品は、3の苦境というのは彼女たちを取り囲む環境であり、所与のものでした。リンゴ、針、灰かぶり…あるべき場所におれない、追い払われた状態の環境こそが問題でした。よって、私たちはシンデレラやオーロラや白雪姫と同じ目線に立って、煌びやかな王宮と王子に憧れていたのです。つまり、23が大きな部分を占め、1の重要度は少なかった。
第二黄金期になって、それは環境ではなく、個人の属性へ移行しました。人魚姫、野獣と読書好き、泥ねずみ、原住民…別に彼らが元々住んでいた場所に何かしらの大きな問題があったわけではありません。ディズニーは、かつて王女たちが追いやられていた小屋や自然を美しく描いたように、泥ネズミが盗みを働く街の通りすら魅力的に描きました(One Jump Ahead)。彼らが環境を変えたいと思うのは、追いやられている不当さからではなく、彼らが生まれついた属性が、より輝ける場所を希求しているという自発的な欲求へと変わりました。初期のディズニー作品で理想的に描かれていた環境的な「隠遁の生活」は、個人の属性上における「隠遁の生活」に姿を変え、彼らは自らの“居場所”ではなく、“正体”を隠すことにしたのです。環境の隠遁が消えた結果として、王宮、魔法の絨毯、色のついた風の中、と、彼らの活動の場は一気にその多様性を増しました。第二黄金期のディズニーでは、主人公たちが物語中盤で手に入れる環境は、まさに夢のよう、誰もが訪れたい「理想の環境」と思う場所になりました。
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塔の上のラプンツェル』では久々に初期のディズニー作品のような、『隠遁の王妃』が生まれました。しかし、『隠遁の生活』を早々と抜け出し、ちょっとした芝生に感動してしまうような、彼女に取っての「理想の環境」に移行する、というハイブリッドな展開になっています。ただし、私は『塔の上のラプンツェル』は失敗作だと思っています。個人的には、1のように、ラプンツェルの置かれた環境/持つ能力に憧れたかというとそうでもないし、2&3塔の上にいるという苦境に対して同情したかというと、これまたそうでもない。本当の苦難は親元から誘拐されていることなのですが、そのことがあまり強調されなかったため、ますます彼女に感情移入するトリガーが少なくなっています。
一方で『アナと雪の女王』もハイブリッド作品です。しかし特筆すべきは「みずから隠居してしまう」これでしょう→§2。その理由は、(その時点での、ではありますが)彼女にとっての「理想の環境」を求めた結果であり、今まで確固としてあった「隠居はしないべき」「理想の環境を観客に提供すべき」というディズニー・ルールが逆手に取られています。結局エルサは隠居はしないんだけど、みんなあの歌の時は、もうそこまで言うなら隠居していいよね、と思ったはずです。「理想の環境」の持つ2面性を、美しくも冷たい雪・氷を使うことでここまで上手く表現したのもまた革命的でした。過去のディズニー作品を揺るがしかねないほどの、大きな変化がたくさん作品の中で見られました。

そのため、「アナと雪の女王」では、観客から主要人物に向けられる眼差しは「1憧れ」も、「2&3共感」もずば抜けて大きく効果的なものになりました。
そして、何より重要なことに、“Let It Go”という曲が、異端に私たちが向ける①羨望と③侮蔑のまなざしを一気に“エルサの問題を観客自身が共有する”ほど肉薄させてしまったのです。
そしてそれを最後に放棄させなかった。雪の能力がなくなれば、もう悩むことはありません。でも能力が残れば、これからきっとまた軋轢が残ります。例えば…クリストフは折角公式アイスマスターに任命されましたが、別にエルサが氷を作れるなら北の山から氷を運ぶ必要がないため、仕事を失ってしまいます。
こういった語られなかった後日譚を想像するに、ディズニーはストーリー上、異端に対してリスクのある、しかし価値のある舵を切ったなという感がします。
それは、異端を受容する時代への舵です。
これはマレフィセントの作成にも通じていますね。このあたりは→§11。


7. Fixer UpperなLoveは、Yes/Noくらいがちょうど良いよね。*4

それでもしちゃうもんね!だってわかんないもん、Love will thow, of course!と言われても、オフコースという割に、すごく細かく描写してくれているので、そこを書き出してみるよ。
最近ジャンプに復活したHUNTER×HUNTERの新章についてヤマカムさんが同じ様に「愛だろう」という分析をしていますが、愛ブームなんでしょうか。まあもし自分が死ぬまで1作品しか続きを見れないと言われたら、「Sherlock」と悩みまくった挙げ句HUNTER×HUNTERを選ぶでしょうね。

さて、この物語は、愛とは「他人の為に自分のニーズを脇に置いておくこと」としていますが、身も蓋もない言い方をすると自己犠牲ってことですね。これまたディズニーでは繰り返し書かれてきたテーマではありますが、今までのディズニー作品では愛=自己犠牲ではありませんでした。リトル・マーメイドではアリエルは声を一時的に犠牲にするも愛はキスでしたし、アラジンはジーニーのために王子になる夢をあきらめました。愛はアラジンの持つ心の清らかさと、自由を求めるジャスミンとの相性が決め手でした。美女と野獣においても、確かに野獣は愛のために戦いますが、決め手となる愛の持ち主はベルであり、特に自己犠牲を払った訳ではありませんでした。あくまでこの物語限定の愛というもので、若干ご都合主義な面も感じられるかもしれません。今後ディズニー作品でどのように扱われるのかが気になります。
ディズニー アナと雪の女王 オラフ ぬいぐるみSS 這い
とは言え自己犠牲の精神は物語内では何度か登場しています。
クリストフの職業について、最初アナは「今やるには大変な職業でしょうね」と皮肉を言っています。クリストフがアナに「俺の氷売りは君とお姉さんが会話することに掛かってるってわけ?」と疑問を呈するシーンもありますが、アナに好意を持ってからは「僕の氷売りのことは気にしなくていい」と意見を変えています。
この自己犠牲の権化ともいうべき存在がオラフであり、自らの希望、そして周りの希望である常夏を叶えれば死んでしまうにもかかわらず、全くその事を気にせず夏に憧れる様が描かれています。ほかに何度もアナやクリストフを先に逃がそうとしています。


しかし、物語内では、もう一つの愛の定義があります。それが→§ で解説している「Fixer Upper(要修理部分)をFixするもの」です。そこでLoveはa force that is powerful and strangeとも言われていますね。Fixといっても完全に直すことを期待されている訳ではありません。もしかしたら予定をfixっていう固定の意味が使われちゃうかも?ま、愛せる欠点だったらそのまんまでも良いですよね。
さらに言えば、§3で解説しているように、この物語はYes⇔Yesという関係だと上手くいかないよ、もちろんNo⇔Noでも上手くいかないよ、片方がYesといっても、時折相手がNoと言えるくらいの関係が健全だよ、ということを繰り返し訴えています。これも一つの愛の形なのだと思われます。

よって、「アナと雪の女王」での愛とはこのようなものになります。

愛=強くて不思議な力
 1、他人の為に自分のニーズを脇にやる自己犠牲の精神
 2、Fixer Upper(要修理部分)を直す/気にならないようにするもの
 3、意見の対立(Yes/No)が許容され、自立した個人がお互いを高め合う関係性

さて、このYes/Noですが、アナとクリストフの間にある関連性については→§3にて解説していますが、最後まで脚本はその姿勢を崩そうとしません。クリストフはアナに「公式アイスマスター&配達人」を言い渡されると「What? That’s not a thing」と返答します。これを「そんなものない」と訳すか、「たいしたことじゃない」と訳すかむずかしいところですが、とりあえず全てを受け入れているわけではないというのがよくわかります。
また、エルサは序盤でダンスを断り妹にさせますが、終盤では妹にスケートをさせようとして、アナが「私スケートしないのよ」「できるわよ」と立場が真逆になるシーンがあります。また、ここでも姉の申し出をアナが断るというYes/Noの関係が見て取れます。
探せばもっともっとあると思います。

8. アナと雪の女王だってFixer Upper


さて、アナと雪の女王のとっても素敵な所は、『Fixer Upper』というロペス夫妻丸出しの素敵な不完全アンセムが挿入されていることです。私はこの歌が異様に好きで、For the First Time in ForeverやLove Is an Open Doorなどを殆ど聞かないまま、Fixer Upperだけを完コピしてSing Alongの英語版会場である六本木ヒルズに乗り込みました。隣に座っている眼鏡の男性(女性と連れ立って来場)は音程も正確にプリンセスソングを歌い上げ、レリゴーでは思わず城を造る手が動き、さらにはのびのびとIn Summerを披露、「おお、こんな男性もいるのか…」と感心していたところ、Fixer Upperは全然歌っていませんでした。なんで!?Fixer Upperいいやん最高やん!!クリストフの間の手まで完コピしたいやん!!Oh…のところで顔を手で覆いたいや〜ん!!しかもカラオケでは最後まで英語版が入りませんでした。Cold HeartやIn Summerよりも遅かったんです。日本語版に英語で渋々歌う日々でしたが、昨日漸く入っているのをかくにん!よかった。

さて、本来はトロールのような異種族が歌ううたは、Under the Sea, Friends Like Me, Be Our Guestなどのように隠遁生活礼賛ソングや多かったのですが、隠遁生活をもう一人の異能、エルサたんが引き受けてくれたため、トロールたちは別の物を礼賛することになりました。それこそが
人間の不完全さ
です。なんというミュージカル・アンセム…これをディズニーでやったロペス夫婦に敬礼!!


この辺りはディズニーの歴史というよりはあまりにロペス夫婦しているため、私ははっきり言って初見で号泣でした。これはまさに、ロペス夫婦のAvenue Qの”Internet is for Porn(インターネットはポルノのため)”とか、Book of Mormonの”I believe”の子供に聞かせれる版ですよ!!いやぁ、かつての自分がディズニーからメンケン、シュワルツ、ジマー好きになったことを考えると、ロペス夫妻を小中学生がインターネットで検索しているかもしれないと思うだけで胸熱ですね!小学校の時はアラジンのパンフレット見て作曲家がブロードウェイの舞台出身と知って、「舞台なんて映画にくらべたら低位」と思っていましたけど、まさにfrozenはブロードウェイ・ミュージカルの豊穣さが生み出したロペス夫妻にその成功を負う所が大きいわけであり、幼い頃の私の勘違いっぷりを痛感するわけであります。

まぁとりあえず、ワンピースとか遊戯王とかマンキンとか日本のアニメを吹き替えまくった挙げ句ブック・オブ・モルモンでトニー賞にノミネートされ、その後あのgleeのライアン・マーフィーがあたらしいドラマThe New Normalを作るっていうんでやめてロスに飛んだらその番組があっさり打ち切りになり、そのことを1年後のトニー賞ニール・パトリック・ハリスに馬鹿にされたという経歴を持つアンドリュー・ラネルズのI Believeくらいなら、子供が聞いてもいいかもしれません。ちなみアンドリューとダブル主演を張ってたジョシュ・ギャッドがオラフ役の声優ですね。私はアンドリュー派だったため、生で見たくせにあんま印象に残ってないのですが。


え、どうしてもInternet is for Pornが見たいって?仕方ないなぁ。子供は見ちゃだめですよ!


さて、他の歌が歌詞的に色々とつながっているのに対し、Fixer Upperは殆ど歌詞の上では他の曲と共通する部分がありません。しかし、Fixer Upperを補完するストーリー上の展開は非常に多く散りばめられています。しかも、Fixer Upperの歌詞にある通り、愛があればFixできるとされています。と、同時に、”We all know we can’t change him caz people don’t really change, we all know that love is a force that’s powerful and strange”と歌われており、別にFixer Upperな箇所が全部治る訳ではないとされています。

まずは歌になっているクリストフとスヴェンから行きますか。

# 【クリストフのFixer Upper】
1 スヴェンに「What’s the magic word? Please. Uh-oh. Share!」と冒頭で言うくせに、自分はPleaseが言えない。人間嫌いで、人の頼みは断る。エンディングシーンでも、Pleaseどころか、キスのお願いが出来ず、文法がしどろもどろに。(むしろアナが最初にであった時にクリストフに出会った時にPleaseという。またアナがクリストフの文法を正す。二人は補完関係。最後までクリストフの変なところは治らないが、それでよしとされている。)
2 Reindeer is Better than Peopleで歌われている通り、トナカイよりも体が臭い。Fixer Upperでも指摘されている。
3 スヴェンに対して異常な愛情があり、アナやオラフがスヴェンに近づくことを嫌がる。終盤でアナを得て、これから良くなるかな、という感じで終わる.
# 【スヴェンのFixer Upper】
1 食いしん坊。特に大好きなニンジンは、いつも分けるのがルールなのに、クリストフに貰った分も我慢できず全部飲み込んでしまう。厩ではきちんと分けることができるようになるが、氷の階段を舐めて舌がくっついてしまう。さらにオラフがニンジンを鼻につけているため、何度も食べようと試みている。最後にはついにオラフのニンジンがくしゃみで飛んできて食べることに成功したように見えるが、ニンジンよりもオラフを大事に思うスヴェンはニンジンをオラフに返す。

この2人はとてもわかりやすいですね。またエルサもわかりやすいです。

# 【エルサのFixer Upper】
1 能力の発動を恐れるあまり、恐怖に囚われている。
2 人との交流を閉ざしている。閉められたドアがそれを暗示。
3 ダンスなどを自分では踊らず、妹にさせる。笑 → 最後にできないと断るアナにスケートをさせることでFixが明示されています。

一方で問題は、アナのFixer Upperが大変分かり辛いことにあると思います。敢えて言うなら、アナの他人の都合を考慮しない自分勝手さが、幼少期の事故を招いたと言えます。しかし、アナのそういったずけずけとした容赦のなさは一方でエルサ救出に大変役立っており、クリストフを惹き付けたものでもあります。
少し話は逸れますが、ドイツ語版のアナと雪の女王の副題はV〓llig unverfroren(完全に開き直って)というものだったりします。英語にするとFully Unapoligeticとなります。verfrorenがとても寒いという意味なのですが、それにunを付けると、ずうずうしい、開き直ったなとど言う意味になるために使用しているようです。そこで開き直ったのはだれなのか、もちろんLet It Goを歌うエルサであることは疑いがないのですが、これはアナを表すにも良い単語だと言う風に感じています。また、ディズニーのオフィシャルの紹介ではアナはFearlessとなっています。

# 【エルサと対比をなすアナの特性】Fixer Upper…なのか?
1 恐れに囚われるエルサ⇔恐れを知らないアナ
2 人との壁を作るエルサ⇔人を信じすぎるアナ
3 自分を隠すエルサ  ⇔思ったことは口に出すタイプのアナ

アナと雪の女王で失敗しているなと思うのは、まさにこのアナの特性のところが、スッキリしないからです。クリストフのあたりはそこが整理されているのに、アナは、人を信じすぎる所が少し変わったかも、くらいで終わってしまう。1、2、3どれもがエルサの救出に大きな意味を持っており、2ですら、ハンスには裏切られましたが、根拠なくエルサが氷を溶かせると信じ、実際に溶かさせてみせてしまったのですから、Fixer Upperとは言えません。とはいえ、ではアナが完全無欠の目指すべき様な人間かというと、意外とそうでもないため、そのあたりにモヤモヤした、未解決感が残ります。
一応、アナにもFixer Upperな部分が提示され、今まで何度か触れてきたのですが、皆さん気付きましたでしょうか?

# 【アナのFixer Upper=この映画のFixer Upper①アナの描写が薄い】
1 前方・周囲不注意
2 ノーコン
3 先走るタイプ。人の意見を聞かない。

以上です。ちっさ。このちっささがこの映画のFixer Upperです。もう少しちゃんとアナの駄目なところを描いてほしかった。一応上記はありとあらゆる所に散りばめられていますがね。
そうじゃない時もあります。エルサを助ける時には1と3が解決されています。クリストフを助けるときは2を解決しています。
しかし1については、最後にまたクリストフをポールに当てるなど、この映画特有の「Fixer Upperは愛があれば(直さなくてもいいよね)」が表現されています。1について、アナはFor the First Time In Foreverで「Nothing is in my way(道を遮る物は何もない)」と歌っていますが、その後ハンスには「Suddenly I bump into you」と歌い、最後にトロールに「Throw a little love their way, and you’ll bring out their best」と諭されます。その結果としてのポールにぶつかる描写なわけですね。「道に何か邪魔するものがあっても、愛があれば乗り越えられる」ということです。

また、ハンスの描写も薄いです。

# 【ハンスのFixer Upper=この映画のFixer Upper②ハンスの描写が薄い】
1 家族の不仲を原動力とした邪な自己実現欲求。
2 本性を隠す
3 他人取り入るため、他人に合わせる

これは、結局解決されることなく、むしろ疑似家族と良好な関係を気付いたクリストフに、王室の座も恋人も持っていかれて終わります。この場合、問題点は2つあると思っていて、
A. ハンスやウェーゼルトン公爵にだけFixer Upperが適用されない。
B. ハンスやウェーゼルトン公爵の使い方が下手、わかりにくい。
Yes⇔Yesの関係性をハンスが表現したがために、ハンスは完璧な王子に見え、そのまま終了してしまった感があると思います。アナがクリストフに会いにいくと言った時、乗り換えが早くて違和感がしてしまうのです。もっとハンスの家族との不和などを使い、Yes⇔Yesを壊さない程度に、エルサ追跡に反対するなども出来たと思います(例えば、「僕は兄弟に酷い目に遭わされ続けてきた、だから本当にエルサを信じられるか疑ってしまう」と発言するなど)。そういうところでハンスと家族に愛されるクリストフの違いを出していけば、アナが尻軽に見えてしまう今の現状を少し変えられたと思います。

# 【王室の不在=この映画のFixer Upper③パンがないならブリオッシュ】
1 戴冠するまで誰が政治を行っていたのかわからない。
2 皿の枚数も知らないアナ
3 クリストフを現物で買収。しかも最後にもソリをプレゼント。一体誰の金なのだ。あんたら99%じゃなかったのかアメリカ人。

また、ウェーゼルトン公爵に関してはハンスの悪意を隠すための隠れ蓑すぎて、全然恐怖心が湧かないのが実情です。ジャファーの様に王宮の政治に口出しするポジションなどでも良かったかもしれません。

それにしても、エルサが戴冠するまで一体誰が政治をしていたんですかね?その人がいるとハンスに頼るのがおかしくなるからやめたんでしょうけど。「Who knew we own 8,000 salad plates?」など、全く自分の境遇に疑問を持たないアナの描写もそうですが、今までのなかで最も「王族」を享受しすぎていて、シンデレラすらビビるレベルだと思います。
でも、I can fix this fixer upper with a lot of love. たいした問題じゃないとも見て取れます。

9. 将来はディスニーの主人公もゲイに?

ディスニーの得意技。それは、「マイノリティを、主題歌→主役級の声優→本当のアニメーション主人公、と格上げしていく」という技です。これをここで、仮に「マイノリティリフト(持ち上げる)」と命名してみます。
たとえば、ブロードウェイでは、ライオン・キングの面々は黒人の役です。しかしムファサ役のダースベイダージェームズ・アール・ジョーンズは黒人系ですが、シンバは白人のマシュー・ブロデリックでした。リトル・マーメイドのセバスチャン、アラジンのジーニーなども黒人が舞台で演じる役ですが、ジーニーの声優はアカデミー賞受賞のロビン・ウィリアムズでした。
ィズニーの場合、白人の役を黒人がやることは(たぶんまったく)ないのに、黒人の役を白人がやることは多々あるという矛盾を抱えています。
しかし、アラジンではアラジンの歌・声とジャスミンの声は白人ですが、ジャスミンの歌声にフィリピン系ブロードウェイ女優のリア・サロンガを起用し、その後本当にディズニーがアジアの映画ムーランを作成した時には、ムーランの声には中国系女優、歌声には再度リア・サロンガを起用しています。更に言えば、Beauty and the Beastのエンディング版はセリーヌ・ディオンと黒人歌手ピーボ・ブライソンが歌っており、A Whole New Worldのエンディング版ではピーボ・ブライソンとレジーナ・ベルという黒人歌手のデュエットが実現しています。また、ポカホンタスの声優にもアラスカのイヌイット系であるアイリーン・ベダードが起用されました。さらに、プリンセスと魔法のキスでついにティアナという黒人プリンセスが誕生します。ディズニーの法則として、まず1、エンディングの歌手でマイノリティを起用し→2、声優でマイノリティを起用し→その後3、マイノリティが主人公になっていく、という経緯が見てとれるわけです。

さて、frozenですが…ここでも「マイノリティの声優」がいます…いやぁようやくこの話に到達したわ…満を持して!我らがメルキオールことクリストフ役のジョナサン・グロフ様をご紹介させていただきましょう!!

な、なんというビッチ…おぶりびんぐ…。(真ん中で最後まで勉強しているひとがJグロフ=メルキです。)
まぁあれですね、どちらかというとgleeジェシー役で知ってる人が多いかもしれませんが、私はたまたまリアとジョナサンの時の「Spring Awakening」をNYで見ていたため、思い入れはハンパないです。さて、そんなLの発音がエロいことで有名なジョン・グロフですが、ブロードウェイにいる頃からオープンリー・ゲイと知られており、今は自身が主役のゲイ・コミュニティを描いたドラマLookingに主演しています。

みよ、このLet's goの舌の動きを!
今までの流れからいくと、ここで公開当初frozenと検索するとgoogleが間違えて元カレのザカリー・クイントの写真を提示してきたジョン・グロフを起用したことは、将来のディズニー作品へのゲイの関与を予想させるものです。まずは脇役くらいから登場するかもしれませんね。
また→§6で解説した、受け入れるための異、および§8で指摘したクリストフ疑似家族をハンスの不和な家族より良く描く点についても、ゲイの結婚がOKとなれば次にくる養子というあたらしい家族観を想起させるものです。
ちなみに、エルサの声優イディナ・メンゼルはブロードウェイ・デビューしたのがバイセクシャルのRENTモーリーン役でしたし(実際はRENTに出演していた黒人俳優テイ・ディグスと結婚し子供をもうけるも今年3月に離婚、好きなカップルだったのにな〜)、エンディングロールで主題歌をカバーするデミ・ロヴァートもバイなんじゃないかという噂があります。gleeでもサンタナの相手をするレズビアン役。少なくとも強力なLGBTアライであり、レリゴーをひっさげて今年はLAとNY両方のプライド・パレードに参加するとか。


10. グッバイ、ピクサーの『脚本の書き方』!

私はピクサーの映画がは全然好きじゃありませんでした。ひとつはピクサーが流行った所為で、ディズニーは長らくミュージカル映画から遠ざかってしまいました。そんでもって脚本の書き方がぜーんぜん好きじゃありません。ピクサーの脚本というのは、どうも流れが決まっているらしいです。引用させていただきましたがこれを訳すとアクセス数が稼げるってHagexさんも言ってました。

1. 主人公の紹介。および主人公に目的を与える。主人公の好きな物、特徴づけるものを明らかにする。

まず、主人公の
・状況設定
・大切なもの
・弱点
を決める。

「大切なもの」とは、例えば:
・ウッディ(トイ・ストーリー)……アンディ(ウッディの持ち主)
・マーリン(ファインディング・ニモ):家族(妻と子供)

「弱点」とは「大切なものを愛し過ぎ、執着しすぎるとそれが弱みとなる」ということ。
・ウッディ:アンディの「お気に入り」の地位
・マーリン:良い父親であること

主人公の「大切なもの」「弱点」が決まったら…
2.「嵐雲」を起こす。あくまで嵐の兆しであり、災難そのものではない。
・ウッディ:アンディの誕生日(自分たちを脅かす、新しいオモチャがやってくる)
・マーリン:イソギンチャクの外に出ると危険だらけ

3.「大切なもの」を失う。
・ウッディ:アンディのお気に入りの座をバズ・ライトイヤーに奪われる
・マーリン:ニモ(子供)をダイバーにさらわれる

4. 主人公に「屈辱」を与え、世界は不公平だと感じさせる出来事を起こす。
・ウッディ:みんなの前で空を飛ぶバズ。旧式のウッディは恥をかく
・マーリン:(そもそも自然界は不公平な場所だから、屈辱は不要)

5. 主人公を「岐路」に立たせ、2幕へ進む。

となっていますが、これが自分には決定的に合わなかった。ファインディング・ニモのお母さんと兄弟になる筈の卵が全部食べられてしまったりして、マーリンにとってニモは最後の1つの卵だということになったりするんですが、プロットのためだけに、冒頭にいつもこういう重大な事件をバサッと挟み込んで後処理をしない。それが合わなくて、映画中ずっと食べられたお母さんと卵の事を考えていました。しかも冒頭の喪失とか屈辱のところが、結構フラストレーションたまって、面白いって感じはしないんですよね。
嫌なことに、アナと雪の女王でも若干同じような展開があるため、とっても憂鬱です。早くグッバイしたいです。私が§ で提示した通り、このプロットというのはディズニーにも大体共通点があります。そちらを改変していっていただくことで、ぜひピクサーのセオリーとはグッバイしたい。

ぼくのかんがえたでぃずにーのセオリー。こんな感じです。

1. まず主人公について
・理想とのギャップ
・邪魔をしているものは何か
・主人公特有の良いところ     を提示する。

2. 主人公が理想とのギャップを埋める努力をする。
 そのために秘密を背負うか代償を支払う。
 一時的に障害が解消される。(ここで歌う!)

3. その努力が失敗する。秘密は暴露される。

4. 失敗の前後のタイミングで、今まで邪魔だと思っていた物も
 素敵な一面があることを学ぶ。(ここでも歌う!!)

5. 主人公が持ち前の一面を発揮して、障害を解消する。


これの変形をやるたけでも、十分にまだまだ面白いものが見れると思うんですけどもね。ただ、同時に学習することも大事で、例えばこのプロットをなぞっていても、やっぱりラプンツェルのI See the Lightなどは大して印象に残らない歌でした。私にとってはね。今見るとラプの顔も変だし、肩幅くらいある大きな顔も嫌いです。そういった細かい所も、frozenでは修正されているなと思います。またプロットから外れていても素晴らしい歌はあります。例えばアラジンのOne Jump Ahead。決して路上生活を賛美しているわけではないのですが、極めて魅力的に見えてしまうのが事実です。やはり歌の中や前後にギャップがあることが大事で、I See the Lightはそのままですからなんの感傷も抱かない。ミュージカルとは今までの固定観念を逆から見ることを提案するものだと思っていますので、それに沿った曲は名曲になりやすいと思います。
I See the Lightであれば、たとえば継母がハンスみたいにいい人で、本当に家に帰りたいのに、ライトと自由に惹かれてしまうとか、もしくは何か条件や人質を取られていて家に帰らなくてはならない状況でライトが実は逃避の時間の終わりを意味する、などとすれば良かった訳ですね。

11. 結局Wickedをやりたいディズニー

さて、最後に§2で予告した、「混ぜると美味しい主題歌の作り方」についてです。
Let It Goは「1、隠遁環境礼讃ソング」 と「2、自由への希求ソング」が合体したものだというふうに書きました。そして、ここにさらに付け加えることができるものがあると。
それこそ、「3、悪役ソング」です。スカーの歌うBe Prepared、アースラの歌うPoor Unfortunate Soul、ジャファーの唄うPrince Ali repriseのような曲のことですね。今回はそれが消え、「4、ラブソング」と混ぜてLove is an Open Doorになったわけですが、12と混ぜた時の効果をディズニーが知らないわけありません。なぜって、Let It Goを歌っているのが、アディーム・マンジーイディナ・メンゼルなのですから!
イディナ・メンゼルは、123を合体させた、ミュージカル史上に残る屈指の名曲を歌いトニー賞に輝きました。その曲が「Defying Gravity」です。

この曲は同じくトニー賞に輝く、Wickedというミュージカルに含まれていのですが、Let It Goと同じように、友達や家族を捨て、孤独な道を選ぶ.またそれによって得られる自由を礼賛している曲です。と同時に、人々から忌み嫌われる緑色の顔をした西の悪い魔女になることを選択すると言う、主人公エルファバの決意をより重くする要素が含まれています。
結果としてとにかく、アドレナリンでまくりの強烈ソングに仕上がっており、歌っているのがイディナというだけではなく、物語の中盤で披露される点、プロットツイストの起点になる点も共通しています。
Wicked


そして、§4にも描きましたが、ディズニーは「マレフィセント」をやりたいわけです。なぜなら、やっぱり「Wicked」をやりたいからです。
今日紹介したミュージカルの中でも、Wickedは比較的見ることが簡単(汐留で上演中)ですから、ぜひ見に行ってみることをオススメします。ポカホンタスの作詞家が書いてます。

とりあえず、おわり!

さて、こんなに長くても、まだまだ書ききれません。全然ミュージカル映画が好きじゃない日本人、アナと雪の女王に「現代」を見てしまう私たち、現代ミュージカルと『アナと雪の女王』のイケない関係、ここが不思議だよ『アナと雪の女王』など、タイトルだけ考えて書けていない物があります。これは後日に回すとして、「アナと雪の女王」を切っ掛けに、多くの子供と大人が、他人を受容することの大切さと、ミュージカルの魅力に気付いてくれればうれしいですね!まだまだ完成までほど遠い論で、かつ見ていないディズニー映画や、嫌いなピクサー、さらには様々な舞台、読み取れない事象など多くあるかと思いますが、なにぶんそこはFixer Upperの精神で御願い致します!!Fare thee well!

論者紹介:岩瀬
年に1度はウェストエンド・ブロードウェイに舞台を見に行く舞台好き。そのきっかけはディズニー。好きなミュージカルは、オペラ座の怪人ビリー・エリオット、Avenue Q、RENT、Wicked、レ・ミゼラブル
アナと雪の女王は、英語とドイツ語版で50回は軽く超えるほど視聴。ちなみにドイツ語版には、May Jポジションがありません。EDはデミです。
Twitterやってます。 https://twitter.com/IwaseTsubono

*1:Demi Lovato版のLet It GoにはわざわざStanding frozen in the life I’ve chosenという歌詞まで挿入されています

*2:これ、クリストフ役のジョナサン・グロフがgleeで演じていたジェシーセント・ジェームスがレイチェルにやっていたことと全く同じなんですけどね。

*3:ICU~

*4:glee season 3のYes/Noからタイトル拝借。またちょうど良いよね、はNext To Normalの台詞から。