サントリー学芸賞を旧世代的な竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』が受賞してしまったことの意味

♪止まった時間は夕暮れ

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えーっと、実は私はこの件にコメントできるほどの知識を持っていないのですが……まあちょっとしたインフォーム、とお考えください。というかむしろ、最近の表現論の盛り上がりに「きいい〜」と嫉妬したり、「わからん」と投げたり、たまに真面目に、「少女漫画にはどうやって適用できるんだろう」と考えたり(これもうまくわかんないまんま)しているほうだったのですが、これは自分の問題でもあるなあ、と強く思ったもので。
人からお借りした言葉ですが、漫画評論には「間違ったまま常識化している事象」がいーっぱいあります。それで、今、漫画評論を始めるということは、まあ私も授業で別の文学評論(の、マネゴト)もしましたけれど、そこで必要とされているのとはまったく違う能力と作業が必要なわけです。それが、過去のテキストを参照して、検証して、その一部を否定する、という、まあ、大変労力のいる作業です。
文学でレポートを出すときにはいくつかのテキストをぽぽぽんと並べて、自分の意見を示せばいいわけです。私が見た中では、トンデモな文学批評は割と少なかったし、それに言及もいっぱいあるので有効なものを選べばとりあえず論は組み立てられました(まあこれも扱う作品によって違うんでしょうが、大枠ではね)。
一方で漫画評論は、ある作品に言及されたうち、半分以上がなんだか間違っているなあ、なんて事がよくある……ように感じられます。曖昧でごめんね、でもそうなんだ。そんでもって、言及がそもそも少ないのに、間違っているのだから、さらに致命的です。それを否定している、対立意見がないからです。しかも、文献のあら捜しの仕方なんて、人生のどこにおいても教わりませんし、やっている方も気分が悪い。そしてようやくそれを終えても、そこに待つのはただの「ゼロ」です。間違った認識を訂正した、というだけのことで、そこからまた問題意識をもって議論を組み立てることはまた別の、すごく大変で、偉大なことです。
今回の受賞は、そういう意味で、これ以上ないほど酷い意味を持ちえると思います。
この、本当に大変で時間のかかる、しかしながら重要で必要な作業を、「そんなものはいらない」と評価されたような、そんな気分になります。
というか、それを指摘しても、そしてそれがある程度、新しい常識として根付きはじめても、それでもまだ過去のものが評価される、というのは、まさに悪循環を産むという点で「有害」だと思います。
「間違っていようがなんだろうが、漫画評論のことは知らない」ということなのでしょうか。それとも、「そんなこと言われても、昔からあった、間違っていた常識の方が、居心地がいい」とでも言うのでしょうか。
もちろん、漫画評論というのはその訂正のみによって評価されることではありません。しかし、竹内一郎氏が過去の評論を「参照する」という最初のステップをすでに怠っていたことは紙屋研究所さんも指摘しています。当然、検証の態度は欠片もありません。
この本が、読み手にいくつもの親和的な事象を持ち出していることは、他の方々が指摘してくれているのでそちらをご参照ください。驚きにまかせて書いてしまいましたが、駄文を読んでいただいてありがとう。