イメージと妄想は同義であり、私は妄想を高らかに謳い上げる。かもしれない。

私はたまに詩を書きます。クチコミと同じで思い付きが降りてこないと書かないので寡作家ですが…その寡作もいつも同じ様な詩ばっかりで、人間としての器が小さい!と思います。同じテーマを手を変え品を変え描く萩尾さんとは大違い。
でもいつも自分が興味をもつテーマを自分が好きな言葉で描いているので、他の人の詩より好きなことが多いです。詩って普遍的に好かれるのが難しい気がします。同じ様な言葉づかいでは凡作になってしまうし、かといえども突飛すぎるのも…。だから、自分が作る面白さがあります。
んでも、なんだかいつも、空、ナイフ、少年(あいたたた)、血か死、からだ、海、子宮って単語が出てきてしまう。結局私の憎むものって私の内部にあって、それってすごい変な感覚ですが、その象徴が子宮なのかな?とか自己分析しています。
とにもかくにも、私は世界をこのよーにイメージしてるってことです。
お気づきかと思いますが私は結構ヤバめな人間ですね。っていうか人間かどうか怪しいですね。
海や大地っていうのは、原初のイメージ、母なるイメージで、「空である私」と対立することばかりです。空は自由と共に、何もないイメージ、何も持たない無性的なイメージがあって、じゃあ男性を何に仮託するかというと、それこそ東京タワーとかビルとか人間とか地上にぶったってるモノに仮託するしかない訳で、そこらへんは男性からしたらお気に召されないだろうことは容易に想像されるのであります。ごめんなさい。

とかいろいろ考えていたら最近バフチーンという人の存在を知りました。この人は色々面白いコトを言っています。私が空なら、彼は大地のひと。ロシア人は大地信仰があるらしいですがそれなんですかねー、大地を墓であると同時に再生の原理(子宮、乳房)と見ているんですね。私とは正反対なんですけど、私はこの人が大好きです。わたしと彼が目指すのは、おそらく系統化、分類化させる学問との決別。しかしことば自体が系統的であり分類的であり、文章はつねに分析的でしかありえないという矛盾。それに対しイメージはいつまでも自由で力強く無尽蔵で秩序破壊的で(誰だって悪の欲望を抱く)とにかくスゴいんです。だからわたしはそれを責めることだけは絶対にしてはならない訳です。仮に私と全く逆の世界理解をする人がいても、その人のイメージを否定することは出来ないんです。妄想バンザイ。
っていうか排泄物は身体と大地の結合であるとかいわれちゃうとどうも嬉しくなっちゃうんだよね。はは。秩序崩壊もバンザイ。