日記から離れてしてたこと

この二ヵ月くらいに自分の主題がジェンダーや母娘問題から、「死から逃れて得た余生をどう生きるか」に転換してしまった、と思う。べつに死病を経験した訳じゃない。
瞳の住人をメッタ切りにして解体する試み』を読むと、自分が未だに「家の中に住む許される子供」になることに固執しているのがわかる。hydeが、REALで手に入れた自由と翼を、もう一度失うことを歓迎した私。モノクロの閉鎖空間で夢を見ることに共感した私。今も同じ気分ではあるが、それはもう自分のテーマではない。
今は『トーマの心臓』のラストを読んでも、以前ほどイライラしないかもしれない。というのも私は憎む他人を失ってしまったからだ。わたしはその対象を断罪しようと試み続けてはいたのだけど、ついに叶わなかった。ひとつに、そうすればその人は簡単に命を経とうとするし(それは驚くべきことにわたしの願いではなかった)、ひとつには、「許してくれてると思った」と言われてしまったからだ。そこからわたしは許される存在から許す存在への転換を迫られた。わたしを排除しようとし、自らの非を決して認められない〈少女〉――わたしの永遠の敵――を、変えようとし(汚そうとし)、裁こうとした過去をかなぐり捨て、私が相手を許すこと。そこから余生が始まった。
そのころわたしの周りでは別の大きな問題が起こり始めており、その人が自分を責めているのもしばしば見た。しかしながら結局は自分の都合を考えているようにしか見えぬこともしばしばあった。問題をおこす人に対処するのはもっぱら私の役目となり、私は妙な滅私奉公をなぜか楽しむようになった。人に尽くすのは悪くない。その裏に行き場のない殺意が渦巻いたままでも。
私は憎む対象を失いながら、憎しみだけは抱き続けていた。風呂場で曇った全身鏡を見上げると「殺せ死ね」だの「殺して」だの書いてある。わたしが私宛に書いたのだ。「許されない自分」への殺意だけが募る。
何事にもやる気を示さず、自分を切り売りするようになった私が、『G戦場へヴンズドア』とリンクするようになったのも頷ける。積極的な生も死も望まず、ただ受け身な共感体としてしか自分が存在していない気がする。