BANANA FISH 8〜11 完結 小学館文庫 吉田秋生

こんなに面白かったとは。
一年ぶりに読み返してみてあまりの展開の素晴らしさにただただ感動。文句一つ浮かばない最高の作品です。ああ…年末からずっと不幸だけど、この物語を読んでいる時は幸せだった。数々の暴言をお許しください吉田秋生様。偉大な作品を残してくれてありがとうございます。
で、私は構造をいちいち分析しながら、イヤラシイ読み方をしていたのだけど、それが物語で全て語られていて、さすがだなぁ、と。つまり、アッシュも月龍もブランカも同じ穴の狢で、月龍は英二を手に入れたアッシュに嫉妬しているとか、ブランカは自分の孤独を埋めるアッシュを実は大切に思っているとか、そういうのがきちんと語られていて、只者じゃないぜ吉田さん!と思った。ほんと、私ごときの出る幕じゃないよ!ブランカの心境や月龍の嫉妬がいちいち身に沁みて、泣けるわ泣けるわ。で、気づいたんだけど、私、英二全然好きじゃない。アッシュに感情移入しているんだけど、英二をいたぶる月龍を見ていて目茶目茶スカっとする。言ってやった!って感じ。だって私には「英二」がいないんだものね。
で、ここからが本題です。私は読み返すまで、この物語がこんなに雄弁だとは思っていなかった。人に貸して、返ってくるのを待つ間、「早く地下鉄ドンパチ読みてぇな」位にしか思っていなかったのです。でも今回読み返してみて、仮に全てのドンパチシーンを削ったとしても、この物語は私にとっては超名作だなと思ったわけです。アッシュが言った「俺は誰にも支配されない!魂の全てをかけて逆らってやる!」(手元にない為テキトー)とか、ブランカの「あいつは憎んで覇者となるよりも 愛して滅びる道を選んだんです」とかもうコピペするだけで泣けてきます。
でも、私はこの物語が「ハードボイルド傑作」とか「アクション大作」以上の評価をされているところを、見たことがないんですよ。当然これはハードボイルド傑作で、アクション大作ですし、その評価に異存はありません。アクション面と心理面、どちらを重要視するかも人によるでしょう。でも、私が知る限りでは心理面への考察は全く欠落しているような気がするわけです(実際発行年だのあとがきだのを調べるにあたりぐぐっていて、アクション大作以外の何者でもないんだから余計な考察すんなみたいな文を見かけたり*1)。吉田秋生の過去の著作を見れば、心理面は同様に重要だと思うんですが…(萩尾望都論に対して、吉田秋生論って少なすぎ!というのもありますね)。
今まで、「ラヴァーズ・キス」以降の吉田作品に対してかなり辛口評価をしていた私ですが、本当にメッセージを受け取れていなかったのは私のほうだったのではないか?と思い返しました。まぁ下種な妄想ではありますが、ラヴァーズでもう一度わざとらしく性被害をモチーフにしたのは、その辺のもどかしさがあったのかもしれません。そういえば、脚本家の野沢尚さんは、「眠れる森」と「氷の世界」を作り、専用BBSを設けたのですが、そこでは作品のテーマについては一切論じられず、ひたすらミステリの謎解きに会話が終始し、失望してBBSを閉じたとかいう話を聞いたことがあります。それを思い出しました。

*1:ここでは直接関係のない話なんですが、以前風と木の詩に関する調べ物をしていて、某やおい掲示板に行き着いたことがあります。そこでバナナフィッシュの話題が出ていたんですが、そこには「アッシュのキディポルノを見たい」という人が…ガクガクブルブル。冗談でしょーもう一回読み返してくれー!と思った記憶があります。その発言はその掲示板でもかなり波紋を広げてましたけどね。

で、トラウマの話なんですが。

Not A Serious Woundさん経由。
藤本由香里「少女マンガのセクシュアリティ 〜レイプからメイドへ〜」(前半)(後半)を読ませていただきました。まぁメイドとかは結構どうでもいいんで。才蔵に萌えないんですよ私は。左介のが好きです。木の上の千代の足にキスするシーンが凄く良かった。とまぁ私の萌え話は置いておいてですね。
やっぱり私が気になったのは後半の最後の最後、トラウマに泥まず成長せよなんですけど…私は去年から、少女漫画における救済者の性格を範囲限定的ながら結構詳しく見てきている…つもりで(あくまでつもり)、その視点からいくとこの論はなんか違和感を感じるなーと思ったわけです。

藤: ホラーですよ、やっぱりあれは(笑)。でも、だからこそ、なのかもしれないけれど、主人公(吉祥天女の叶小夜子)がその傷にとらわれていない。乗り越えて、むしろそれを武器にして使いこなしている。だから気持ちいい。それは『BANANA FISH』のアッシュにも言えることですけど。
藤: コントロール効いてますからね、彼女(小夜子)。傷に捕らわれているわけじゃないから。それはアッシュも同じだけど。

と藤本さんはいうんだけど、アッシュに関しては私はそうは思わない。小夜子に関しては同意だけど…藤本さんほどの人が小夜子とアッシュをどうして同じモノとして語るのかなぁっていう。その辺の構造の違いは年末論文で説明しましたが、それに加えて、小夜子は自ら攻撃してるけど、アッシュは自分で語るとおり防戦一方でしょう。アッシュは「頼んでもないのに向こうが勝手に殺しにくる」とか言っていたじゃないですか。つまるところ、彼にとっての敵とはトラウマが銃を持って襲ってくるようなもんでしかないと思うんですけれどね。最初の敵、白ブタマービンなんかモロにそれ。オーサーはゴルの手下だし、そこには彼の嫌悪する「支配」が絡んでいるし。そして彼は番外編ANGEL EYESでレイプは性欲を満たすものではなく支配するものだと言っているし、フランス人に犯されそうになった時も、そうやって支配しようとする!おれは何にも支配されない!魂かけて逆らう!って言っているわけだし。要は彼にとってのトラウマ=支配されること、で、「乗り越えてそれを武器に」なんかしていないし、「コントロール」もしていない。そして彼の唯一の敵は「支配」しようとしないブランカなわけです。逆に言えば彼は支配するものには徹底的に抗う。

相: 吉田秋生さんが描く作品はその点でバランスが取れていますよね。もうそういう癒しとかなんとかが主眼じゃないんだなというところで。
藤: 癒されることだけじゃ人間ダメだからねえ。先に進まないとね。

で、上の続きがこうくる訳なんですけど、いやオイ!めちゃめちゃ「あいつは憎んで覇者となるよりも 愛して滅びる道を選んだんです」って描いてあるやん良く読めよ、というね。もうこれは私からしてみれば誤読も誤読なんですけど。癒しっていう単語のセレクトがまぁアレですが、要は癒しでしょ、英二の愛は。先にも進んでいないし。どうも相沢さんは、吉祥天女で小夜子がバッコバッコ馬鹿を退治していくのが気持ちがいいというのに固執しすぎて、ラストで失われたものを見ていないという感じがしますけれど。小夜子はいつ何処で前進しているんでしょうか*1彼女には癒しすら与えられていないという方が正解に近いと思うのですが。

相: あの娘は戦っているんですよ。だから自分のトラウマもコントロールできてるし、自分自身もコントロールできているし、実際に周りの男、恨みを持っている人たちに立ち向かっていけると思うんですけど、たぶんそこが読んでいて気持ちよかったんですよ。魅力的だなと。

さいですか。
誰もが漫画を自分の都合の良いように読んでいて、特に私はその傾向が顕著すぎて申し訳ないといつも思うのだけど、ここらへんの流れは見逃せないなと思ったので取り上げてみました。一つ、吉田秋生はトラウマから脱出しているのか?という問い。していないと思うのね*2。で、二つ、トラウマからの脱出ってそんなに重要なの?という問い。これについては下に続くので、興味あるかたは見てやってください。

*1:自分を犯そうとした人、結婚させようとした人を殺した、女性性忌避と見ることも出来ますね。トラウマっ子です

*2:蛇足だが、そもそも絶世の美女である小夜子に、IQ200のアッシュ。この二人がトラウマを抜けたところで現実には何の抗力も持たない。私は絶世の美女じゃないし、IQ低いし、銃撃てないし。

少女漫画でトラウマって無理に脱出する必要ないよ

トラウマ漫画っていう括り自体がもはや不明瞭。<トラウマ>は本当に相沢さんの言うとおり、「定式化」されていると思う(私は良く記号化という言葉を使うけど)。<レイプ>もそうで、新城まゆとか刑部によってトラウマとは切り離されているし、トラウマ自体がエンターテイメントと結びついているという指摘はその通りだと思う。
具体的にトラウマで有名な漫画は…少女漫画ならまず「彼氏彼女の事情」(津田雅美)が挙がるんではないでしょうか。これ未読なんです。スミマセン。あとはフルーツバスケット高屋奈月)、古いところだとトーマの心臓萩尾望都)もでしょうか?吉田秋生なんて殆どですよね。少年誌だとハンタのクラピカとか…キリがありませんね。やめましょう(笑)

話は変わりますが、今日、「僕と彼女の生きる道」を見ていました。これは典型的なACを父親側から描いています。母親が出て行ってしまいクサナギ演じる父親と二人で暮らすことになったリンちゃん。嫌そうな父親に対し、自分の文句を全て押し込め、それどころか努めて「いい子」を演じて、「家の中の許される子ども」であろうと必死で努力します。ところがいい子をやっていても父親は冷たく、逆に連絡ノートを見せなかったことで怒られてしまう。そして今度は(恐らく)構ってもらおうと、深夜にハーモニカを吹くが、マジで怒られる。痛々しくて見ていられませんでした。ああかわいそう。しかしここには救済者がいます。小雪です。家庭教師をしている彼女はリンの孤独を知り、お父さんとの橋渡しをしています。彼女のイメージはやはりスレたところのない純真なイメージです。
実際は、このように上手くいきません。大抵の家庭ではこんな家庭教師も小雪もいません。ただ子供はいい子を演じ、演じ疲れるまで演じるか、途中で捨てられるかでしょう。
同時に、それは少女漫画にも言うことが出来ます。現実には英二はいません。涼もイーヴも、メリーベルもエーリクも、救済者はそうそういるものではありません。そして少女漫画におけるトラウマ回復のキーワードは、「二人一組」と「愛」でしょう。スレたトラウマ野郎が純真無垢な穢れのない片割れに癒されるの図を、私たちは何度反復して見せられたことでしょうか(これは、少女漫画のヒーローにトラウマ君が多いことにも当てはまります。家族を失ったとかね。たいていは主人公少女のあっけらかんな性格と愛情で回復していきます…よね?)。フルバとかフルバとかフルバとか。
そこで湧き上がってくる一つの疑問、はたして純真無垢チャンは、創られたのかもともといたのか。実際は居もしないような人間を、わざわざ作り上げて回復することに意味があるのか?という疑問*1。その点で「日出処の天子」は天才的だったな、と思います。あれはバナナフィッシュの月龍側の物語ですね。「私には進むべき道が見えぬもの」*2
山岸さんの他の作品で「天人唐草」というのがあります。この巻末に、中島らも11人いる!とはうってかわって良いエッセイを書いています。救いのない終わりだが、書き手はそうあるもの――といった感じのことを書いていたような気がします(手元になくてスミマセン。見つけ次第訂正します)。とりあえず、無理にハッピーエンドにすることはない、そういうことです。
私としてはいい加減、トラウマと無垢の関係は破棄するべきだと思います。少なくともそういった形での非現実的なトラウマ克服が「先に進む」ことだとは到底思えないからです。「ACという名称(=トラウマに名づけること)」に泥むことは、トラウマの原因から逃避ですが、「トラウマを無垢を使って乗り越えること」や、「美貌やIQ200を使って乗り越えること」に泥むことは、トラウマの原因からどころか現実逃避だと思います。
無垢の存在はいわばロケットみたいなものでしょう。大気圏は脱出できるけど容易に手に入らない。私は無理矢理捏造された救済者は要らない。
無垢から抜け出たところに、残酷な神が支配する少年魔法士があるのですが、残酷な〜なんて、「トラウマの克服」を描くのに精一杯で克服して何をするかまで描けないままだった気がします。エヴァとかもそうでしょうか。魔法士は…人外の生物とか出ちゃっているからな。
まるで要は英二の悪口言いたいだけみたいですね。違います。多分。

*1:結論から言えば、そのような無垢な存在は「理想」でしょうと思います。宮迫さんも、渡辺えり子さんもそう言っていました

*2:究極の無垢、白痴の使われ方もここでは違った意味を帯びてくる。まさに神業。

メモ

クラピカは人気があるとの説明の割にキーワードとしては人気がない。ロイ・マスタングからいつの間にかカップリングの記載が消えていた(以前は、「やおい同人誌では主に攻めとして主人公エドワード・エルリックと組まされる」と書いてあった。やおいに疎い私はそうなんだと思ったものだった)。アッシュは伊部さんに阿修羅王に例えられた。神の性格を持ったものは同じ末路を辿る。支配に関連するからか。カルノが心配。いや心配じゃないけど。