「暗くてよく見えん」少女漫画評論と「ジェンダーレス・ワールド」の話

暗いよね


◆山口論文に私が同調した本当の理由は少女漫画評論が抱えるジェンフリ同様の問題にある

さて、『バックラッシュ!』山口論文を読んでいて、「ああ、やっぱりなあ。ジェンダーフリーって、よくわからない成立をした、よくわからない概念なんだなあ」と思ってしまったのには理由がある。
ここで、昨日、山口論文の指摘した部分が少し手薄だったので補強しておくと、

  • ジェンダーフリーというのは草の根的な運動とは違って行政フェミニズムのなかで学者さんが決めたもので、新しい言葉を使いながら革新的とかいいつつも内容は今までの草の根歴史とそうはかわらず、
  • また実質的なバイアスよりも精神的なことを重視し、
  • さらにはそのジェンダーフリーという言葉がバーバラ・ヒューストンさんの論文タイトルを読まずに借りたもので、ヒューストンさんはむしろジェンダー・センシティヴを擁護する立場だった
  • しかもその「内容未確認のままタイトルだけ誤読で引用」は他のフェミニストの対バックラッシュ戦略に使われまくった
  • また、大沢真理さんは実際に『ジェンダーからの解消(ジェンダーフリー)』という、ジェンダーレスと誤解をうけても仕方ない言葉を使っている

などなど、出るわ出るわといった感じなのだ。


私にはひとつの決まりごとがある。「ウェブ上で自分から表現をする場合は、少女漫画を研究する者として行う」というものだ*1。そうしないと、自分の雑多な趣味を中途半端に出すだけになってしまうとの危惧からだ*2。そして、少女漫画を研究するにあたって、私はむしろ、過剰にフェミニズム的なコンテクストによって語られがちな少女漫画の回収をこそ目指してきたという経緯がある。そう、少女漫画評論も山口論文に指摘されるような「看過できないミス(?)」が存在したからだ。

◆正当な反論の可能性=問題を孕まない論理など存在しない。では何がいけなかったのか

問題はこれらのことがバックラッシュの中心対象にはなっていない(たぶん)ということで、そこらへんがバックラッシャーと私を分ける境界になるかもしれない(いや、自分が多少なりともバックラッシュ的であることは十分承知なんだけどね、なりたいわけじゃナイから!)。もちろん、昨日言ったようにフェミニズム内部でこれがタブーだったとしたら問題だとは思うけれど、私はフェミニストにならないという選択をとっくに済ませてしまっているので、ここで「フェミニズムなんて」というポーズを取るのもなんだかなぁ、という感じ。ただし、バックラッシュではない正当な批判がありえた、という事実は私にとっては大きい。ついでに言えば、このような事実が存在するからこそ、「バックラッシャーの論理はおかしい、リテラシーがない」といった戦法には、あまり賛同できないのだ。次々と新たな論点が出てきて水掛け論になってしまう。それよりも、お互いが間違っていることを認めた上で*3、今後の戦略をこそ中心の論点とするべきだ。
ところが、自分でも昨日の書評をアップ前に読み返したところ、「ジェンダー・フリーという言葉に問題があったなんて俺は既に知っていた」という宮台プレイか「やっぱり、どこにも書いていないけど本当はジェンダー・フリーってめちゃめちゃな理論なんじゃん!陰謀じゃん!」っていうはあちゅう理論にしか見えなくって、あわてて少女漫画編に続く、って書いてみたわけ。

以下、少女漫画評論の地位の低さを考慮してたたみます。実はけっこうぶっちゃけ話なので、興味がある人だけドゾー。

*1:イコールわたしが少女漫画評論家であることを指すわけではない

*2:絞ったところで更新はおいついていないのだが

*3:これは私が少女漫画を読んだ上で学んだ、いわば少女漫画の戒律というか教義であり、私にとって絶対の価値観を持つ考え方なのである。

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