海賊はもう、帰ってこない

パンターニについて語ることは、私の自転車史を語ることにもなる。パンターニランス・アームストロング、この二人の鬼のようなヒルクライムに魅せられて、私は自転車を見始めた。
自転車との出会いは「これ以上ないくらい」作為的だった。高2の時の英語のリーダーの教師は、あらゆる分野に詳しく、英文の読解よりもその時代背景や自身の雑学を披露したがるタイプの人間だった。殊更ツール・ド・フランスへの思いは強く、現行の教科書からは消えてしまった、ツール・ド・フランスについての英文をわざわざコピーして配布し、それを読ませるつもりだった。さらに四月から怒濤のスピードで英文を読んでゆき、他の教師のクラスより丸々一課先を言っていた。「早くしないと七月になってしまいますから」というのが教師の口癖だった。中間テストを返した後もさっさと授業を進め、七月に備えた。
六月の後半、私たちはコピーされた英文を読み始めた。教師は今まで殆ど使わなかった黒板の半分を数字でうめて背番号の説明をした。1から9まで。0は欠番。これが20か21チーム分。とりわけ私を驚かせたのが、背番号の一の位が1であるエース一人を優勝させるために他の八人の選手が犠牲となる「アシスト」制だ。彼らはエースが遅れれば待ち、ライバルが先手を打てば一緒に逃げ、食料や飲物を調達する。その他にも、彼はこれ以上ない正しさでツールを紹介した。ステージ制とポイント制、四つのジャージについて。その他のこまごまとしたルール――例えば集団ゴールやチームタイムトライアルについて、ゴールではジャージのチャックを上げることまでも。その他の明文化されていないルールも知った。集団の先頭は風を受けて疲れる。だからアシストはこまめに「先頭交替」をして体力を温存する。それはたった二人の逃げでも行なわれる基本だ。はじめのうちはビデオを止めながら、教師は逐一説明をした。一通りそれが終わると、私たちは知識を総動員してレースを楽しんだ。一面のヒマワリ畑を駆け抜ける色とりどりプロトン(集団)、もしくは切り立った山々の美しさ。スリリングなアタック。飛び出していき、何百キロも数人で逃げてきた逃げ集団が、ゴール前で力尽きて大集団に吸収されることもよくある。傾斜が1%の坂ですら登るのは辛い。彼らは7%の坂を軽々と登っていくように見えた――後にその表現は過ちだと知ったが。
とりわけ私を熱中させたのは、死の山と呼ばれるモンバントゥでの、パンターニとアームストロングの一騎打ちだ。パンターニは98年、ツールだけではなくジロでも勝ってダブル・ツールを達成し、一方アームストロングは前年99年のツール覇者だ。二人の優秀なクライマーはその壮絶な上り坂を何度も何度もアタックし続けたのだ。一人が前を出る。少し差がついたと甘く見ると、今度はカウンターを食らう。今でもあのモンバントゥこそ私の知る最高のアタック合戦であるし、ツールそのものだ。
二人は横並びでゴールラインを目指した。決着は衝撃的なものだった。ランス・アームストロングゴールライン直前、ブレーキを引き、僅差でパンターニに勝利を譲ったのだ。
(ポイントを考慮しなければ)この場合タイム差はつかない。ランスにしては、それが偉大なパンターニへの尊敬の表現だったのかも知れない。だがパンターニは激怒した。ランスも自分を恥じた。
しかし、何と象徴的なのだろう!死の山の頂上の手前でブレーキを引いたアームストロングは、死の前でUターンした*1。そうして彼はこういっている――「人生は辛く長い登り坂を登るためにある」。パンターニは頂上から下り落ちるしかなかった。しかもそれは登りとは違う苦しさをもつ、命を懸けた高速のダウンヒルだったようだ。
自転車界にとってドーピングは常に一番の問題だった。ツール・ド・フランスが世界一過酷なレースであることは疑う余地もない。パンターニ自身の98ツール優勝も、ドーピング問題と深い関わりがある。ともあれ、私の海賊はメドゥーラを連れずに海の向こうへいってしまった。辛く長い上り坂の上では、誰よりも強い海賊だった。
そうして私は、30年ではなく永遠に彼を失ってしまったことに、あらためて愕然とするのだ。

*1:彼は睾丸癌からの生還者だ