「私にはもうエドガーが描けない」理由

最初っからファンの方々の逆鱗に触れるようなことを言えば、エドガーとはグレッグでしょう。
ごめんさない(早い)。イアンでもいいです。
順を追って説明します。
まずポーの一族について語るとき常に問い掛けられるのはアランの存在やポジショニングについてです。アランがメリーベルの“身代わり”かどうかという論争(?)を含め、大抵エドガー、アラン、メリーベルの関係は

エドガー←(補完と対称)→アラン・メリーベル

と捉えられがちです。が、この三人の関係はもっと複雑で、そこに「他人との境界がわからない」という萩尾望都の怖さが見え隠れしているように感じます。
エドガーがアランをメリーベルの“身代わり”に見ているというのは間違いないと思います。ただし当然アランはメリーベルの空白を全て埋めることは出来ないし、逆にアランならではの良さもある。よってアランはメリーベルの“身代わり”であるが、それだけではない、というのが一番しっくり来るように思えます。
そしてまた、エドガーもメリーベルの“身代わり”であることを忘れてはいけません。エドガーは彼女を人質にとられ、彼女の安全と引き替えに、自分がバンパネラになるのです。自分の人間性も無垢も彼女に預けて。だからこそエドガーはメリーベルをあれほどまでに愛し、守ろうとするのです。メリーベルエドガーと違って血が薄い為に、体が弱い、エドガーに頼りきりの少女として描かれていますが、それはエドガーという〈非少女〉にとってもまた好都合なことです。エドガーとメリーベルは、互いが“身代わり”になることで、互いを一つに結び付けている、対称的で、相互補完的な関係をとっています。

きみはだまってそこにいる なにもいわずとも そしてわかってくれる――(エドガーからメリーベルへ)

同時にメリーベルエドガーと同じバンパネラとして、エドガーと孤独を分かち合う存在でもあります。このようにエドガーに対して「なにもいわずともわかってくれる」存在であるメリーベルを、宮迫千鶴は現実にはいない美・少女と名付けました。補足するならこれはより性格には美・〈少女〉でしょう。
そしてもう一つ重要なのは、メリーベルもアランにとって、死んだ婚約者の代わりだったということ。『ポーの一族』ではそのような関係性が何度も持たれます。例えば、メリーベルに犯した間違いをもう起こさないための「やり直し」として機能していたリデル。もしくはメリーベルを思い起こさせるエルゼリ。ランプトンであるエドガー。(それは「不死」のなかで繰り返される時間の中で起こる、必然的な現象なのかもしれません。)
と、なるとこの三人の関係というのは、エドガーはメリーベルとアランを必要とし、メリーベルエドガーを必要とし、アランはメリーベルと、自分におべっかを使わない存在としてのエドガーを必要とするところから始まり、メリーベルが物語初期にあっさりと失われてしまう、ということになります。
この三人は、エドガー/メリーベル&アランという〈非少女〉/〈少女〉ラインで分けるよりも、むしろ一つの、バンパネラの子供・もしくは『ポーの一族』という大きな人格*1を共有する「三つの個性」として捉えたほうが、わかり易いのではないかと思います。

さて、そう考えてみると、アランの存在やポジショニングが、大きく変化しているのがわかると思います。初期、彼は町の有力な家の跡継ぎ息子として、学校内で幅を利かせる生意気な少年として描かれています。エドガーは一目みた瞬間にアランを仲間に加えたいと思いますが、その後彼がその生意気さをエドガーの前に曝け出した後も、彼は口では「もうちょっとマシなやつだと思ってたが、家で妹のお守りをしていたほうがずっと意義がありそうだ」といいながら、心のうちでは彼の孤独を見抜いたのか、『一族にくわえたい なんとしてでも彼―アラン』と思い続けます。一方アランも、トワイライト家内での権力争い、決め付けられた愛のない婚約者、そして空虚な友達関係とは一線を画したエドガーとの【対等な】関係に心を開きはじめ、「きみはぼくのごきげんをとるためむらがってきたやつらとはちがうな」とエドガーを認めるに到るのです。

ところが、メリーベルの死により事態は急変します。彼は「僕の命、僕の愛」であるメリーベルを守ることが出来ず、更に彼を押さえつける「父性原理」を振り回していた義理の父、そして母を失い、天涯孤独になります。「おいでよ…ひとりではさびしすぎる」、そういってエドガーは、不意の殺人を犯してしまったアランをポーの一族に誘いこみます。
そして大老ポーの濃い血をついだエドガーはアランを一族に加え、少しの眠りを経てエドガーは覚醒します。

エドガー「どう気分」
アラン 「わかんない…なんだかぼうっとしてどこまでが夢なのか…
いつ目が覚めたのか…わからない 覚えていない…」
エドガー「でもぼくがわかるね」
アラン 「うん」
エドガー「――ぼくたちが長い旅に出ることもわかるね」
アラン 「うん」
エドガー「なにも思い出さなくてもいいことも?」
アラン 「……うん」

そうです。最初っからそうなのです。
このシーンを含む『ペニー・レイン』ではバンパネラを表す言葉として、「ぼくたちは時の夢」という表現が二度使われています。体の変化を経て目覚めたアランは夢現の中で「ぼうっとしてどこまでが夢なのか」わからないといいます。そこでまずエドガーは「でもぼくがわかるね」と、同じ「夢」という大きな人格を構成する自分の存在を確認すると同時に、前出の引用部と同様、彼がメリーベルと同時に自分をわかってくれるような人物であるか確認をしているのです。そして最後に彼は確認します。「なにも思い出さなくてもいいことも?」

〈少女〉と〈非少女〉の概念を借りれば、〈少女〉とは〈意味〉と〈認識行為〉を封印された〈主体性〉のないものとして語られています。しかし新しい血と生贄を探し、14歳という年齢のため都市を点々としなくてはならない幼き『ポーの一族』は、そもそもの存在が、人に自分たちの正体をしらないでいる〈少女〉であれ、という支配原理を要求するものでしかありえません。エドガーが自らを人間とキッパリ分け、自分たち=大きな人格の中で人間との関係性を終わらせようとするのに対し、メリーベルとアランはバンパネラになってからも外の人間に恋し、そこに明確な線引きをしようとしません。だからこそ彼は『ペニー・レイン』内で「さようなら さようならをいっておしまい アラン 人間界のすべてのものに」と願い、「なにも思い出さなくてもいいことも?」と確認をするのです。それはアランをバンパネラに引き込んだ者としての、彼にバンパネラの掟である、支配原理たれ、〈非少女〉たれ、という誘いであり、同時に大きな人格=〈非少女〉を補完するものです。
それに加えて、メリーベルを失ったエドガーは、彼にメリーベルであれ(=僕のことをわかれ)、という要求であり、それはアランという個性に対して、美・〈少女〉たれ、というある種の「押し付け」でもあります。

この大きな人格と個性の相克*2により、エドガーとアランはそれぞれ複雑な構成のアイデンティティを背負い込むことになります。
アランは、大枠・大きな人格においては共に社会の逸脱者としての性格をエドガーと共有し、内面は無垢で溌剌とした人間的〈少女〉のままであり、またエドガーにとっては庇護の対象・理解の相手であることを要求され、主体性を抑制されなければならない少年として。
エドガーは、個性としては〈少女〉に戻る願いを薔薇を折る癖に託しながら、大枠・大きな人格においての孤独・逸脱者・異端児としての性格を埋め、中和するためにアランに対し父権的な支配原理を強制する存在として。
今まで『ポーの一族』を語る現場においては、アランの奔放さと対をなす存在としての、エドガーの孤独や寂しさばかりが強調されてきたように思えます。
しかしこの二人は鏡写しのようでありながら、一方は奔放さを、一方は寂しさを強調した「個性」であり、その裏に、もっと広く、曖昧で、透明な二人を内包する共通の条件(=大きな人格)を見出すことが出来ると思うのです。

さて、私はそのような初期萩尾望都キャラクターの特徴を、最初に「他人との境界がわからない」という萩尾望都の怖さ、と形容しました。というのも、彼女の作品は、初期ではやや無自覚に扱われていた幾つかのテーマを突き詰めて、キャラクターの立ち位置を明確に、構図を発展させて『再構成』させるというふうにして発展しているという向きがあるからです。例えば初期はトーマやメリーベル、ユーシーであったものは、段々と本物の「白痴」に姿を変えていきます。一切意思を持たない本物の無垢というふうに、キャラクターの個性が剥ぎ落とされて、要素が前面に出た結果でしょう。また『トーマの心臓』と『訪問者』の間にも、私が繰り返し指摘しているようにその『再構成』を見ることは容易い。初期の両性具有的なキャラクターもまた、次第にマーリー2、メッシュ、マルグレーヴ・メイヤード、タクトといったホンモノのトランス・ジェンダーのキャラクターへと姿を変えていくのです。
萩尾はその「他人との境界がわからない」危うさを双子というモチーフに託し、『半神』*3残酷な神が支配する』内でのエリックとバレンタインのような関係を提示する一方、物語やキャラクター全体についてはより明確なポジショニングを求めてきました。その最終到達地点を示した『残酷な神が支配する』にて、手塚作品のロックの様に、萩尾のダークな部分を全て背負って現れたのが「グレッグ」その人でした。

勘の良い方でも、私の稚拙な論理展開ではお気づきにならないとは思いますが、「個性としては〈少女〉に戻る願いを薔薇を折る癖に託しながら、大枠・大きな人格においての孤独・逸脱者・異端児としての性格を埋め、中和するためにアランに対し父権的な支配原理を強制する存在」というのは、『残酷な神が支配する』のイアンと恐ろしいほどに酷似しています。イアンは一旦は〈非少女〉になることを拒否し、自らの認識行為を封印してジェルミに「お前はグレッグを殺してはいない」と告げます。そして自らの過ちを認めジェルミを連れ戻した後、今度は彼を愛することで、彼を父親グレッグ同様、支配し、痛めつけて罰しているのではないかと悩み苦しみます。なんてこった、イアンはオスカーの末裔であるばかりか、エドガーの末裔でもあったのです。
私はエドガーの孤独と同様に、エドガーの「グレッグ性」にも注目すべきであると考えます。
つづくよ。

*1:物語とはいいませんよややこしくなるので

*2:相いれない二つのものが、互いに勝とうとして争うこと。また、その争い。

*3:ちなみにこれもモザイク・ラセンの再構成ですね