久しぶりの更新がこんなのでごめんなさい

鬱が来た。
よくネット上では鬱とさっくり言ってる人を見かける。私はそんなに鬱にはならない。差別化してもどうしようもないが私自身の悩みは緊張症であって、たとえばそれが腹の内の腸の中のひだの数まで知り尽くしているような相手でも久々に会うとなれば数時間前くらいから緊張してしまう。何か自分の中で大事なイベントがあると3〜4日はそんな感じだ。それが最悪になると、心拍数100以上の状態が24時間、3ヶ月ほど続くこともある。2回ほど経験したが、鬱とは違って死にたくもならないし、ただひたすら不安で落ち着かないので、むしろこれが早く過ぎ去ってくれるよう生き急ぐような印象でその危機を乗り越えてみた。もちろん今となってはそんな状態にあった自分が不思議で仕方ないのだが、その状態にあるときには寝転がって講談社新書の題名を見るだけで不安になってしまってどうしようもない。今度来たらどうすればいいのかわからないが、今度来ることを不安に思いすぎるとそのままあれになってしまう気もする。精神科にはいけなかった。
 
今日のは違った。
 
原因はいろいろあったがあまりに複雑すぎてその当時は全くわからなかった。取り合えず口をついて出てくるものはため息か咳か"I don't know/remember"。I'm sorryとThank youというのがひたすら辛い。笑っていても何も面白くない。むしろ涙がでてきそうになる。「笑えない。」そしてため息。ため息をついてみんなを不快にさせてしまったことにため息。そしてまたため息。死にたい。消えたい。おうち帰りたい。その繰り返し。
一人で電車に乗りながらこんどはその態度を後悔してひたすら落ち込んでしまう。
――こんな状況を英語でなんていう?I'm suffering from depression.
取り合えず何もかもを英語に置き換える癖がついてしまった。なのに、その英語の授業で自分は上手く出来なかった。それどころか、一人で鬱に浸ってしまった。おまけにそれを周りに悟らせてしまい、感染させてしまい、不快にさせてしまい、失望させてしまい、得ようと思っていた評価と、全く逆の何かをつかんでしまった。そしてそのことにいま失望してしまっていた。
 
私は中学生の時から、お風呂で毎晩その日した間違いを思い出し、そのことに頭を抱え、息をのみ、その傷をなんども反芻する。最後には気がつくと、「やめて。やめて。お願いだから誰か殺してくれ」と言っている。家族は私の長い入浴に気を使ってユニットバスにリフォームしてくれた。真っ黒い言葉の聞きすぎで、新しい壁は1ヶ月でカビだらけになった。
毎日何回殺してくれと言って、毎日何回間違いを思い出し、消えたくなるかわからない。それくらい普通のことになってしまった。さすがに人前では言わないが、バイト先でだれもいない店内を掃除していると、気がつくと「殺してくれ」と言っている。もう何回目かなどもはや問題ではなく、何故言うかも問題ではなく、いかに人から隠れてそれを繰り返せるかが重要になってきた。何故ならそんなでも私は全く問題なく生活が送れるし、手首も切らず縄も探さず人生を悲観したり投槍な態度を取ったりしないからだ。そりゃあ、たまには悪態をつき、化粧を怠り、予習をしないでいったりするが。
 
幸いなことに私のアンテナの中には自分の心情を吐露するのを躊躇わない良い書き手が何人かいる。彼らは自分のくだらなさと弱さをさらけ出す小さな天才だ。私は子供の時はそれなりに本を読んだし、そして大きくなってからは漫画を読んだし、大嫌いな映画だって年に20本は見た。その中の一つたりとして私が毎日していることを描いたものはなかった。つまり、起床、排泄、食事、登校、授業、惰眠、授業、失敗、休み時間、失敗、授業、自己嫌悪、食事、授業、惰眠、授業、下校、失敗、帰宅、惰眠、失敗、食事、入浴、反芻、自己嫌悪、自己否定、自己破壊、自己憐憫、反感、敗北感、孤独感、排泄、そして就寝についてである。そのかわりそれらは憎らしい人の殺害(本当は人など殺したことはないが、憎らしい人はいる)、愛する人とのセックス(酷い場合は愛する人は実存しない)、そして人間の素晴らしさ(いまだ存在を確認できない)を執拗に描いてきた。「殺してやる」、「愛してる」、「人間万歳」だ。
 
もちろん例外はありすぎるほどある。
それでも私は中学生の時、こういうことをしている人をどこにも見つけられなかったし、それゆえもうそれを探そうとしなくなった。私がこの一年で最も酷い鬱になった時思い浮かべたのはその例外ではなかった。私は一つの電話をかけ、とりとめもなく自分のくだらないコンプレックスについて1時間話し、なんとか平静な状態に戻った。そう、「私はあの人が好きなんだよ。同時に怖くて仕方がないのよ。だってあの人は白人で、金髪で、頭がよく、何故こんなところにいるか、さっぱりわからないんだもん。そんな人を見てしまうと、そう、たとえば自分と同じ年齢で、同じような頭脳で、同じような容姿で、ただ金持ちだから、就活をしなくてよくて海外に遊学なんてなったら、それはただ嫉妬の対象じゃない。でもあそこまで違って、完璧すぎる人間を見てしまうと…その人間に認められると、自分の地位が上がる…いや、救われる、と思うんだろうね」「ある種その人のようになりたい、という対象になってしまうじゃない」つまり彼の視界の外に存在したくないというそれだけの見栄であり、「始めた頃には何もかもを吸収していた。でも今は、自分が発するものを盗まれている気がする」という焦燥であり、そして黄体ホルモンの所為である、と。電話を切った頃、不思議と気分は晴れていた。