のだめカンタービレ12巻 キャラクターと音楽をめぐるモノローグの違い

のだめカンタービレ(12) (KC KISS)

のだめカンタービレ(12) (KC KISS)

あ、ちょっと面白く感じることができました*1。千秋はもう自分でも何やってるのかわからない感じなんでしょうね。のだめのどこが好きなのかいまいちはっきりしないのですが、流されちゃった的な千秋の行動が違和感なくしっくりきてます。「俺だー!」「ぎゃぼー」には吹きました。
 
あと何でこの漫画がそんなに好きじゃないかわかりました。あのポエム野郎の所為です。
そんなの漫画の脇役じゃん!と言うなかれ。これは漫画の中の音楽表現の問題なのです。
少女漫画独特の表現にモノローグ、というのがあります。
登場人物の心の声を、ふきだしにいれず地の文に書くものですが、同時に登場人物が読んだ内容やストーリーテラーのナレーションなどを表すことができます。
少女漫画において、音楽、とりわけクラシックをあらわす時にはロマンティックなモノローグを入れるのが「王道」だと思います。曲や作者にまつわるエピソードを説明し、美しい言葉でその音楽を表現していく。クラシックより画面で表現しやすいバレエ漫画ですら、モノローグの表現に大きく依存しています。それが良くも悪くも少女漫画スタイルなのです。
 
もちろん、最近の少女漫画をめぐるモノローグの変化は抑えておかなくてはなりません。大塚英志のいったように、24年組が開発した内面の表現装置としての回想的なモノローグは消え、逆にあたらしく二つの形が出てきました。一つはシテ一人主義、もう一つはキャラクター分散主義です*2。前者の代表は神尾葉子。他にもポップな少女漫画家さんの間で一般的な方法で、主人公以外のモノローグが一切入らない手法です。相手の考えていることが分からないため、誰とくっつくのか分からないラブ・ゲームに有効です。そしてもう一方がキャラクター分散型。これは、以前ひとりの中で幾つもの層を持っていた内面の言葉が、キャラクター一人一人に一層の言葉が割り当てられるようになった方式で、代表はやはり高屋奈月でしょう。
 
ここで、のだめカンタービレを評価できるのは、ミステリアス?な主人公を際立たせるために主人公のモノローグを使わないと作者の二ノ宮和子さんが公言しているところです。このような作品はほかにも数点ありますが、自覚的にモノローグを使用している点は素晴らしいとおもいます。
んが。
結局それはキャラクター描写の妙でしかありません。今回自分が面白くなった、といったのは千秋とのだめの関係の面白さなのですが、肝心の音楽描写は相変わらずです。しかも、少女漫画の伝統的手法・モノローグをギャグにしているにも関わらず、新しい表現方法を用いるでもない。結果として、ギャグはお寒く、音楽表現は凡庸で、千秋がどのような初演奏をし、どう評価され受け入れられたのかはさっぱり分かりません。
 
この気持ち悪さは映画『ターミナル』と似ていると思います。この映画も感動ものとして宣伝され、実はコメディタッチの映画でした。最後に明らかになる、主人公がアメリカにとどまる理由が、あるジャズプレイヤーのサインを貰うためでした。それで、父が集めていた50何人のジャズプレイヤーのサインがコンプリートできるそうなのです。
嫌な物言いですが、わたしはこれでも毎年年1回はジャズコンサートに行ってきました。特に意味はなく、つきあいだったり、教養人を目指すものの義務感だったり。にもかかわらず、クラシックと比べて魅力がわからなかったジャズ。そこまでして会いたいというジャズの名プレイヤーがいるのなら、劇中で是非その演奏を聴いてみたい。最後にそのプレイヤーが出てきたときにはとてもワクワクしたものです。――そして演奏は途中で終了したのです。
カットされていました。
つまり、主人公の目的=私の目的、であるという自分の考えからすれば、その演奏をじっくり楽しむことこそ映画のエンディングにふさわしいものなのですが、主人公の目的=映画の目的、と考えるスピルバーグさんにとって、サインが貰えればどうでもよかったみたいです。
 
料理するものが指揮者で、親御さんが演奏者だから(?)というのは乱暴ですが、夏目房之介さんが褒めていらっしゃるのは、やはりご自身のバックグラウンドが相当影響しているかと思います。私はコンサートより舞台(オペラ・バレエ・ミュージカル)の人間なので、人間関係云々よりもまず表現ありきだと思います。
 
 
結論:『昴』を超える芸術漫画に出逢いたい

*1:なぜなら今まであんまり評価していないから

*2:これ、大塚英志セーラームーンって言ってたかな?本が見当たらないわ。