デスノートエントリお返事その2
そろそろ収束しかかってきているデスノエントリですが、一行コメントをくれる方が圧倒的多数の中、はてなの中で2つトラックバックを頂いたのでお返事してみます。大したことは書きませんが……遅くなってごめんなさい。
解釈の仕方によるところがあるかな、と考えた一文。月がジャンプ的悪役ヒーローである必要もないし、Lは正義でもないし(そもそもL側の行動には多分に法の道理を外れるものがあり、Lが当初キラを追っていた論理からすれば『理由が何であれ悪を犯すもの=悪』という基準に自らも当てはまることになるのだが、何故かL側派そういう認識を自己の行動には当てはめない)、また行動原理だの動機だのを追ってみたところで、複雑になればなるほど読者がついていけない、という事態に陥りそうな気もします。(中略)
ええとつまり、「悪を滅するために自ら悪を犯す」ということを、L側もキラ側もしてしまっているわけですよ。「そのくらいしなければ悪は滅びない」とか言って。そこに正義だの思想だのを持ち込んで、互いの行動に正当性を持たせようとしたってどこかで破綻するし、また逆に言えば勝利によって得られるものが社会的な善悪定義や名声ではなく、あくまで一個としての優劣の問題へと帰結していくからこそ、デスノのモノローグ中心による心理戦は最大の効果を発揮しているのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/rolim/20060218#p4
Firefoxではページが見れなくて焦りました(笑)。前にも言ったんですが、あのエントリは、1・題名に反応しネタバレの有無を語る、2・私が最も言いたかった月の動機について語る、3・少年漫画の主人公と敵の属性について語る、という反応があって、とても数少ない2の反応です。こういう反応が読みたくって、「やっぱり少年漫画っていうのはそこらへん気にしちゃいけないんだな、みんな気にしてないんだな」って再確認しました。否定するわけじゃないのですが、私はドラゴンボールの楽しさはそんなにわかんないです。「もっと強い奴と戦いたい」みたいな根拠のない欲望を信じられません。ブロガー(とやら)が全員アクセス数を欲しがっているわけではないように。
あとLが法的に悪を犯しているというのは、どのことかちょっとわかんなかったんですが、Lは正義ではないというのは仰るとおりで、間違っていました。ライトとLの戦いは、正義を騙るものと正義を語るものの戦いだったんですね。
あのエントリを書いた直後に、野火ノビタの「冨樫義博論」を読みました。そこで、ジャンプ的な戦いには戦う理由がなく、それを問うた稀有な作家が冨樫義博であるという一文を見て、「やっぱり戦うのに理由なんてないんだな、ある意味オトコノコも大変だな」と思ったのでした。コメントありがとうございました。
表とは、一方の軸に善悪があり、他方の軸は「真実」を知っているか知っていないかの区別になる。この四象限のうち、真実を知らず悪いもののカテゴリーには雑魚キャラが入る。まあ『北斗の拳』のジャギみたいなキャラだ。そしてだいたいのボスキャラは真実を知り勝つ悪いものだ。
http://d.hatena.ne.jp/amalec/20060220
漫画ブックマーカーならもう知ってるかもしれない良エントリで、謙遜してるけど絶対id:amalecさんのほうが少年漫画読んでる。最早あんま私関係なく一個のエントリとして成立してる。話題が複数に渡るけど
- x軸に+善―悪−を、y軸に+認識―無知−を据えると、第一象限が知っていて善い主人公の到達すべき姿、第二象限が知ってて悪いボス、第三象限が知らずに悪い雑魚、第四象限が知らずに善い主人公の駆け出しの姿
- 真実とはエヴァ以降は「私は何者か」である
- しかしジャンプでそれについて悩むのはナルトと一護だけ
- 戦いに理由がなくとも、そこでの緊急性は推し量られるべきである
- ハンタは「主人公の内的葛藤がな」く、メルエムが「私は何者か」と問うている
みたいな理解です。私なるたるの評判は聞いてたんですけど、読んでないんですよね。で、基本的にこういう仕事をできる人を私は尊敬するので、もう何かなにも言う事はない、と。ハンタに関しては、確かに少年誌どころか青年誌を見渡しても比較対象がないほど善悪が入れ組んでいて、それを単純に裏表で表記するのには無理があるという指摘はその通りです。ただ私にとってゴンって、冨樫義博が少年漫画を好きにグロく書くために、無垢性を前提的に確保するための存在に思える一面があり、そのために作品的には純粋一途なんだろうな、って思っているのはあります。それでも、同時に前提条件の名前として、Freaks=怪物性も確保してあるのがすごいんですけど。そして、その善悪をごちゃまぜにしているのを、「ごちゃまぜです。どうぞ」といって出すハンタと、「両方善です、どうぞ」といって出すデスノというところに線引きがあるのだと思った。「両方善です」と言った時点で、善悪に対する問いは作品の表面上封じられ、モラルと思想についての問題は隠蔽され、ドラゴンボール的力と力の戦いになる。人を殺す理由は問われず、私の違和感だけが残る。
それと、「私は何者か」という問いは実は2種類あって、「僕は誰か」と「僕は何か」です。これは横文字だとアイデンティティとレーゾンデートルに置き換えられるんですが、「僕は誰か」で悩むのがデビルマン的キメラとか、二つ名前を持つ人とか、双子とかなんとかで、浦飯幽助とか蔵馬とかナルトとかはこれだから、切羽詰ってて好感が持てる。わたしは名前のないエルメロニアあたり、そして夜神月(ライト)とキラという、夜=闇、神=絶対、月=反射、Light=善、キラ=Killer/輝きというめちゃめちゃな名前を持つライトきゅんはその絶好の候補だと思ったのだけど、本当に勿体無い。
僕は何か、というのは役割的なものに関わるものであって、これは「海賊王に俺はなる」「オレが火影になるってばよ」「僕は新世界の神になる」に直結する。私が最も批判したいのはこの馬鹿げた考えなんだけど、やっぱり読み飛ばすべきなのだろうか。君たちは十分に強いじゃないか。戦う理由は「緊急性」に見出せたとしても、それになりたい理由はさっぱりわからない。べジータが「宇宙一だ――!!」とか喜ぶ理由もさっぱりわかんないです。
色々考えさせられるエントリでした。言及ありがとうございました。
今後の予定では、デスノ9・10巻を読んでネタバレしつつレビューして、あと簡単に冨樫義博についてまとめます。野火ノビタ本の簡潔なレビューとしては、非常に的を得ていて面白いんだけど、幽白で使う「アイデンティティ」「ヒューマニティ」の定義がよくわかんない。幽助とか結構魔族になってもケロりとしてたよ。ただ親父が身体乗っ取ったのが気に喰わなかっただけで。
他にもレビュらなくてはと思っている本は何冊かあるんですが。。。死。