正直あたしには解んないのよね情報ってヤツが

だってこんなに読めない



唐突だけど「リテラシー」とか「偏向」という話題が苦手です。


リテラシー」に言及している人の9割が「俺にはリテラシーがあるけれどお前らにはない」という文脈で使っている気がします。怖いです。「もっとリテラシーつけなきゃ」という謙虚な人も、リテラシーということにコンシャスである時点で私は抜け出ているとか思っているように見えたりします。怖いです。誰だって、自分の得意分野以外には、リテラシーなんぞ存在しないように思える、というのが、私の見解です。その通り、私は「気がします」「見えたりします」「ように思える」を振りかざし、メディアリテラシーの真逆を行く理論でメディアリテラシーを苦手だと宣言します。別段否定はしないけれど、苦手は苦手です。


さらに言えば、読解力や偏向そのものが焦点に摩り替わる瞬間が嫌いです。「この文章はこういった意図で書いたのに、君はそれを読めていないのだ」とか、「このような事実があるにもかかわらず、この文章は読者に誤解を与える」といった論調がダメです。なんだその俺は全てを知っている調は、と思うと同時、君は偏向していないとでもいうのかね、とも思います。リテラシーや偏向や事実誤認や読解力や、そういったモノそのものを扱うと、その人の主張が見えづらくなります。そんなことを言う人の主張は無視すればいい、と思うかも知れませんが、「君はこういう風に誤読している。偏向している」と言われる場合たいてい相手と“認識の相違”ってーやつがぁ生まれるので、「いえ、誤読しているのはそちらです」という応酬になり、いつのまにか議論は本来いるべきフィールドを恐ろしく離れていることが多々あると思うのです。


君はさっきから一体何の話をしているのだね? と賢明な読者さまに思われてそうですが、リテラシばなしの起こるところ、大抵こういうことは起こっていると思います。実は、私自身の身にはあまり起こったことはないのですが。いちおう、リテラシ好きさんのフィールドに立つため、「ソース」を示すと、“私が見て、知って、かつたまたま記録していたのでソースとして提供できるもの”では、一連のはてな界隈のフェミ・ジェンダーに関する論争でそれが見て取れると思います。おいらのブックマークのジェンダータグで話は追えなくはないけど、もう数ヶ月、いや、ジョン・マネー論争時代を含めるとそれ以上続いている流れだし、いちいち掘り出して提示するのがめんどいので、しません。だから、リテラシーって言われて怯えちゃう人は「あー、そういうことあるよなぁ」って思ってくれれば幸いだし、リテラシー大好きな人は「俺はリテラシーがあるからこの文章にはひっかからない」と思ってもらえればと思います。


何が言いたいのかというと、読解力とか、情報判断力とか、偏向というのは私の論点ではないから、そういう話に加わりたくないということでした。もちろん、最低限の文章読解力は必要ですが(そして、それが自分よりもないと思う人も、そりゃあ、たまにいますが)。わたしは、自分にリテラシーがあるなんて、とても思えません。しかも、私は偏向しています。メディアリテラシーがない人、というのはいつもいつも話題に上りますが、そういう風に自ら宣言している人を見たことがないので、なんとなく、言ってみます。