『バックラッシュ!』 やっぱりジェンダー・フリーという言葉は使いたくない(イミフだから

lepantoh2006-09-04

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

なんとも評価の下しがたい一冊。いや、下す必要なんぞ全くないのだが、レビューする上で人に薦めるか薦めないかという判断はしておくべきだと思っているわたしにとってはこれは難題だ。読んだほうが良いに決まっているのだが、長いし、“読後”に自分が使うエネルギーもかなり要求されると感じた。
バックラッシュ!』を手にとったきっかけは、上野さんでも宮台さんでもなくchikiさんとmacskaさんだ。普段からの活動がこのような書籍に実った成果は尊敬に値するし、お二人の宣伝への尽力や、ウェブ上での精力的な活動に関しての精力的な活動は素晴らしく、いちはてなダイアラーとしてこの本を肯定したいところだ。

さて、そのような立場をすべてひっくるめても、本書にはいくつかの欠点があるように思える。

  1. 一部の論文で、ジェンダーフリーバッシングへのバックラッシュへの反論が中心となる論文が多く、いわば「反論への反論」で止まってしまっているように思えること
  2. 扱う「バックラッシュ」が狭すぎて、同じことを繰り返されているように感じられること。
  3. その結果、ジェンダーフリーそのものへの提言や戦略までテキストが届かず、“ネクストステージ”が見えにくいこと。
  4. そして、そのような提言をする上で必要な筆者のスタンスが見えてこないものが多いこと。
  5. また、読者層をどこに想定しているかわからない、という問題。

ただし、本書には多くの文章が掲載されているため、当てはまらない文章も存在するし、当てはまったところでその文章を全く評価しないというわけではない。


  1. に関して。具体的には、後藤和智さんの教育関係の論文、山本貴光吉川浩満さんの脳科学論文、小谷真理さんのテクハラ論文、小山エミさんのジョン・マネー論争まとめ、荻上チキさんの自民党バックラッシュ論文にそのように感じてしまった。最初に言っておくが、私はここに挙げた著者の文章とは普段から親しんでおり、好きな書き手である。それゆえに幾分がっかりしたというのが正しい。たとえば、インチキ男女脳にだまされないようにと諭す山本・吉川論文だが、人々がなぜそのような脳論に傾くのかを見ていない感じがする(その傾く人々が本書を読まないであろうことも)。また、脳科学全体への言及は少なく、とりわけバックラッシャーが参考にするような新井康允さんの研究などに全く触れていないのには違和感がある。
  2. について、上記にも関連するが、八木氏を引き合いに出す論文が多すぎてゲンナリしてしまう。彼がトンデモなのは十分承知の事実であるし、もちろんちゃんと活字媒体での反証をする必要性は感じるが、その結果、どこかで見たテキストや言い争いの繰り返しのような印象を受けた。たとえば、小山エミさんの文章はインターネット上で繰り広げられたもののまとめ、という形だが、それ以外にもたとえばマーガレット・ミードへの反証がバックラッシュとして吹き上がっている(英語のウィキと比べて圧倒的にバックラッシュ的だ)。私は、人類学の授業において彼女の名前を聞いたのをはじめに、ジェンダーの授業の一番最初の一コマをつかって彼女を紹介されたり、さらにはイギリスが出版したフェミニズムの入門書の最初にも彼女の業績が紹介されていたりと(ただしこのタイトルを失念してしまって、どうしても見つからないのだ!本当に申し訳ない)、人類学がフェミニズムに貢献した代表例として認知していたためにショックだったのだが、やはりこれも触れられていない。私にとっては、バックラッシュに関して知りたかった部分をあまり知ることができなかった。
  3. このように、バックラッシュの一部に関しての反証であり、そしてバックラッシュそのもの(八木氏・林氏など)に対する反証であるがゆえ、テキストはそこで止まってしまい、この後のジェンダー・フリーへの戦略をどのように取るべきと各々が考えているのかが見えにくくなっている。それは、ためにする議論、に対しての反証として正しくないのだ。
  4. わざとそうしているのかもしれないが、斎藤氏(後述)のようなスタンスを私は好む(後述)。
  5. 読者層の問題に関して。「本書の目的は『バックラッシュ』とは何であるのかを一般の人に知っていただくというものです」という冒頭の言葉とは裏腹に、丸山眞男の[インテリ/亜インテリ/大衆]とポール・ラザースフェルトの[専門家/ミドルマン/大衆]を引きながら、日本では亜インテリという低学歴が諸悪の根源で、ミドルマンという専門家の言語を大衆向けに翻訳する人が少ないとインテリの立場から説く宮台さんの文章が一番最初に来る違和感。鈴木さんに関しては、いつもどおりの鈴木さん論法でネット右翼と呼ばれるものはただのサヨク嫌いである、そしてサヨクを叩くことが彼らにとっての問題を履き違えているということを説明。でも多分サヨク嫌いの人はこの本読まない。


一方、個人的に感服したのは以下のお二方による文章。

斉藤環 バックラッシュ精神分析

内容では二番目に参考になり、スタンスでは最も共感できた本書随一の論文。精神分析におけるジェンダーの可能性をラカンを軸に探る。素晴らしい点は2点。ひとつは最初の一章を割いて自分の立場をはっきり明言していること。あくまで精神分析の立場としてこの文章を書くこと、「男女平等」にははっきりと反対し、また消去法的に「ジェンダーフリー」を選択するがその他の選択肢も考えていることなどが明文化されているのだが、なぜかこの本には、このようなスタンスを取っている著者が少ない。もうひとつはバックラッシュの本丸ではない内田樹三砂ちづるを取り上げ、印象論的な身体的決定論への反論不可能性を以ってして反論となすという点。一部の過激なバックラッシャーに対する反論ではなく、それに流されてしまう空気をも言い当てることを可能にした見事な問題の立て方で素晴らしい。

山口智美 「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズム運動の失われた一〇年

ジェンダー・フリーという語が草の根から離れた行政フェミニズムを出生とし、また誤読の上に名づけられ、擁護されてきたことを説明されるのは圧巻。というか、これが今まで「タブー」だったというのが不思議。小山さんの論文には、『ブレンダと呼ばれた少年』タイトルの[これはひどい]誤読が紹介されていたが、フェミニストも同じことをやっていたんじゃん、と思った。ただし、脚注で上野氏の立場の不明確性を批判するのならば、ジェンダー・フリーという言葉への態度をもっと明確に示して欲しかった。この文章そのものが遂行文だというのも分からないでもないが。


マーティン&ヒューストンさんの「ジェンダー・センシティヴ」という考え方や、瀬口さんの普段は触れない学問領域からの異議申し立て、長谷川さんの草の根運動の論文は興味深く拝読した。上野さんのインタビューについては、私はミソジナスが強すぎてとてもフェミニストにはなれないので、モニョモニョした気分で読む。なぜ、「ジェンダー・イクオリティの訳語は男女平等しかありえ」ないのかさっぱり不明。



思ったこと、自分が出した結論

ダイアモンド教授が言ったという"Basically, I do support gender-free ideas."には私も賛成だ。基本的に、私はジェンダー・フリーの考えに賛同している。だが、前々から「ジェンダー・バイアス・フリー」という言葉の方が適切であると言ってきた(……ってはてなでは言ったことないかも! でもmixiで発言しているはずだ。)。あたらしく、ジェンダー・センシティブという言葉も良いかなあと思ったが、早速バックラッシュ陣営による誤読が始まっているようで面倒だ。ともかく、私はこれ以降も今まで通りジェンダー・フリーという言葉の使用・保護・擁護には反対の立場だ。その積極性は本書、とくに山口論文を読んでより強まったかもしれない。


思ったことがいくつか。ひとつ、日本ではジェンダーという言葉そのものが認知されていない(信じられないことに)。でないと上野千鶴子さんのような発言は出てこないはずだ。もうひとつ、私は自称クイアなのだが、クイアやセクシュアル・マイノリティの立場からの文章を見ることは少なかったように感じる。とりわけ、バックラッシュ発売後においてのブログ界隈でクイアとして発言する人は少なかった。中には、「最近僕はクイアだと知りました」と言っている人がいたりした。これは別段本書の悪いところではないのだが、そういう現実があるのだということを興味深く感じた(ただ、私はクイアを実践しようとしているだけで、研究家・運動家ではないため広めようとも思わないのだが)。最後に、やっぱりここでも気になったのは「リテラシー」のおはなし。リテラシーを主眼に物事を語るとつまらない上に、全く効率的ではない。人々の啓蒙やら自覚を促したところで、無駄なものは無駄なのだということを、最近のmacskaさんのはてダを見ていて強く思った。macskaさんほどの知力を持った方が、誤読対応に追われているというのはなんとも勿体のない話であり、ジェンダー・フリー論争の戦略においてリテラシーを語ることへの強い違和を覚えたのだった。


書評を書いてみて、自分自身のバックラッシュ性に驚かされた一冊。たぶん、少女漫画編に続く。