芸術は0.1ポイントに宿る

London

(один)
数週間前に、松岡修三がヴィルジニー・デデューの様子を特集しているのを目にした。フランス人のデデューは、2005年世界水泳のシンクロナイズド・スイミングのシングルで芸術点10点満点を得点し、ロシアのイシェンコに完全勝利して金メダルを獲得し、その後に引退宣言をした――はずだった。
デデューは、彼女が去った後の大会で、イシェンコが金メダルを獲ったのを見て、復帰することを決意した。イシェンコの演技は、高い技術力に支えられたものだが、それは彼女が築き上げてきた信念――「ソロは芸術」――の逆を行くものだった。技術的にはまったく“新しいこと”ではないイシェンコの演技……「彼女の振付は2005年と同じだったんです。あの時は私が勝ちましたが……」とデデューは付け加えた。
「ソロは芸術」との信念のもと、一貫して女性の人生を表現してきたヴィルジニー・デデュー。
優勝した大会では、常に芸術点は10点満点だった。一方、金メダルを獲ったイシェンコは9.9点だった。
「今ならまだ勝てる。芸術的にも、技術的にも、新しいことを盛り込んでいくつもりです」――建築学校を卒業し、2年以上のブランクがあるデデューは最後に松岡修三に問うた。「信じてくれますか? 私がやれると信じてくれますか」


「芸術」に関して、以上の記述から判ることはとても少ない――これくらいだ:デデューさんが信じる「芸術」と「そうでないもの(≒ただの技術)」の差は0.1ポイントという形で現れる(⇔でしか表れない)。


もう少し何か判ることがあるとすれば、こういった質問を介してだろう:「ソロは芸術」とは、どういうことか(この言葉は、もちろん、聞き手の私たちに、「ソロ以外は芸術であるとは限らない」という情報を付与する)。
それは、こういうことかも知れない。

  • オリンピックには、シンクロ・ソロという競技はない。世界水泳などの水泳大会にはある。
  • 世界水泳2005のシンクロ・デュエットで、フランスは10位だった。一方、ロシアは1位だった。
  • 世界水泳2005のシンクロ・チームで、フランスは8位だった。一方、ロシアは1位だった。

ひとつの解りやすい解説として、こういうものがある。「彼女は巧妙に、自分に属さないものを芸術から排除している」
そうして、そうではないかも知れない。「それが、彼女にとっての芸術である。そして、彼女は10点満点を取る、本当のアーティストだ」
そして彼女の演技は世界中で高い評価を受けているのだから、彼女にとっての芸術は、やはり私たちにとっての芸術でもある。


だが、彼女にとって芸術でないものが、私たちにとって芸術ではないとは限らない。
(≒最高得点を記録した浅田真央の演技より、腕を痛めて踊りきった安藤美姫の演技に感動する人がいることは、ありえないことではない。ドラマはもっとも親しみやすい芸術である)。
つまり、芸術であるかそうでないかは、ほんの0.1ポイントとしてしか表すことはできない。そして、その0.1ポイントは、他人にとってどころかそれぞれにとっても本当に些細なことで決まる。たとえば――差別とか。


(Быть продолженным――「黒い肌のロメオ」に続く)