同人誌はなんで「パロディ」として語られないのか、とか(高橋×望月感想)

lepantoh2007-01-16

さて、わたしは文学生でありつつもここでは漫画研究のひと、という位置づけなので、漫画の話も交えつつ、昨日書ききれなかった感想を書く。拝聴して、高橋さんと望月さんは、すれ違ってはいなくとも、立ち位置が全く逆だと感じた。そして私は望月さんのいる立場に親和性を感じる。
高橋さんの話を乱雑にまとめるとこのようになる。

  • 小説でも評論でもなく、小説家が小説について語るのは、小説論という新しい第三のジャンル。
  • 文学に詳しい読者ではない「一見さん」の読み方の礼賛。「新鮮な読み」「ゼロから読むこと」など。

それと

  • 日本の現代文学は世界一。
  • 日本では、古典がもはや現役ではない。だから現代文学が優れている。
  • 日本では、政治が既にアライブでない。だから現代文学が優れている。

実は、高橋さんは話し始めてすぐに文学部生がどれくらいいるのか挙手をさせて調べていた。そして「ほとんど……というか半分以上だね。」と述べていた、一見さんではない人がどれだけ多いか知っていたのだ。その上で、自分達「小説家」が小説についてする仕事を第三のジャンルとして特権化しておきながら、その後では純粋で無知な読者のあり方を褒め称えている。個人的には「第三の〜」という言い方が上野千鶴子めいていて何だか嫌な肌ざわりなのだが、私は日本の現代文学に通じていないのでまあそれ程でもなかったとして、高橋源一郎さんを目当てに来ていた勤勉な学生たちは自分達が既にそこに立ち返れないことを知っているのになぜそんなことを言うのだろうと疑問に思ったことだろう。幸い高橋さんはそういった学生を囲って話し合うことでお金を貰う機会があるわけだが、評論という場に出ればそういう人が適切なことを言える可能性はとても少ない。一方で、「読み」というのはもうこれは個人のものであって、人それぞれの読みにそれぞれ素晴らしいところがあるという態度を私は取りたい。つまり、評論・読み双方のレベルで私と高橋さんはスタンスが違う。
後段について。主旨には特に反対するべき点はないのだが、非常にわかりづらかった。「漱石と太宰だけは(古典として)現役」といっておいて『続・明暗』をつまらないと切り捨てたり、「80年代の日本なら(古典のパロディを)出来た」といいながら、高橋さん自身の『官能小説家』『日本文学盛衰史』といった仕事が90年代末〜00年代初頭にかけて行われた点などがよくわからなかった、今でもわからない。
ただし「政治がなくなるとエロスはなくなる。残るのはポルノ」という言葉にはそれなりに共感を覚えた。政治をイデオロギーと読みかえるともっと判りやすいかもしれない。そしてわたしはポルノという存在はそんなに嫌いではない。


今回の一番の収穫はなんといってもソローキンだ。変態すぎる。素晴らしい。「文学で私の興味をそそるのは、まさに狂気であり、奇怪であればあるほどよい。もっとも退屈なのは健全な作家、文化的に中庸の作家たちです(たとえば?)ナボコフ。私はまったく彼を読み返すことができません」という彼のインタビューからの言葉は、私が漫画とか舞台とかたまに映画とか本とかに求めているものに共通するものを感じるし、またそこにぺドフィリアという日本ですら割とポピュラーな異常性癖(と読んで構わないだろう、私は異常であることに価値があるとしているのだから)を標榜するナボコフを引っ張り出して否定するというところに彼の戦略が滲み出ている。同様の戦略として思い浮かぶのが、バフチンが詩と小説という二項対立を創り上げ、モノローグ的な詩を批判して小説の〈対話〉を礼賛するときにプーシキンの『エウゲーニイ・オネーギン』を小説として褒め称えたことが挙げられるだろう。『オネーギン』はオペラとしても親しまれる有名な題材であるが、これは韻文体で書かれている。
ところでロシアというのは大文豪たちが鎮座する古典の王国のようなイメージはないか。実際私はロシア文学に精通しているわけでもなんでもないのだが、私にとってのロシアらしさというのはこのグロテスクさにある。

 ガーニャ:俺は大変な金を稼いでやる!百万の百万倍、十億の十億倍稼いでやる!
 ナスターシャ:お金を全部焼いてやる!金庫も銀行も全部!世界中の造幣局も全部!
 ガーニャ:エヴェレストの頂上に城を建てるんだ!氷と雲しかないところに!世界中で一番高価な城だ!基礎はプラチナ!壁はダイヤモンドとエメラルド!屋根は金とルビー!毎朝俺は軟玉のテラスに出て、眼下の人々に宝石をばらまいてやるんだ!下の連中は宝石を拾いながら叫ぶだろう。「栄えあれ、ガーニャ・イヴォルギン、世界一の大金持ち!」
 ロゴージン:俺は世界中の女が欲しい!俺は女たちを感じる!一人一人を知って、愛している!俺はみんなをはらませなければならない!それが俺の人生の目的だ!俺の神々しいペニスが闇の中で光っている!俺の精液は、溶岩のように煮えたぎっている!世界中の女の分があるぞ!女を連れてこい!全員はらませてやる!全員だ!全員だ!
 ナスターシャ:私は素晴らしい完璧な自動車を作るわ!鋼鉄の巨人のように地球上を闊歩して、放火して回るの!走っていっては火をつけるの!自分で運転するのよ!町も村も燃やしてやる!森も野原も!川も山も!
 公爵:ぼくの肉体には3265150 本の神経がある!その1本1本にバイオリンの弦を結ばせるんだ!その3265150 本のバイオリンの弦がぼくの体から四方八方に伸びていく!そして3265150 本のバイオリンの弓を持った3265150 人の孤児たちが、ぼくの弦をこするんだ!ああ、それこそが世界の痛みだ!それが苦悩の音楽だ!ああ、子どもたちの痩せた腕!ああ、ぴんと張ったぼくの神経!すべての孤児と不遇な者たち、すべて虐げられ辱められた者たちよ、ぼくの体で演奏するがいい!そしてみんなの痛みを、ぼくの痛みとするがいい!
 ヴァーリャ:私は「妹の愛」という名の素敵な飛行船を空に浮かべるわ!銀色で透き通っていて、空気みたいに軽くてダイヤモンドみたいに硬いの!その飛行船に乗って、下劣で醜悪な地上から空へと飛んで、全世界に向かって叫ぶの。「愛すべき妹たち!汚れなき妹たち!無私の妹の愛を失わない妹たち!ここにおいでなさい!あなた達を悪の世から善と光の世に連れて行くから!」すると妹たちは船の下に集まる。私が銀の梯子を下ろしてあげると、みんな上ってくるの!
 レーベジェフ:私は巨大な鋼鉄の豚になる!前足はもぐらの足!もっぱら地面の下に住み、夜中だけ地上に這いあがっては、世の不浄なものをむさぼるのだ!地中に一大トンネル網を作る。夜にはゴミ箱のゴミを喰い、下水を飲む!すると私の鋼鉄の皮膚の下に、重たい鉛の脂身がたまるだろう!そしてただ舌だけが、人間の、優しい、ピンクの、湿った舌のまま残るだろう!昼間は、不浄物を消化しながら、舌べろだけを地上に突き出して、伯爵や公爵、侯爵や男爵の靴底を舐めるんだ!
 イッポリート:ぼくは死を出し抜いてやる!世界最良の医師たちを雇って、新しいぼくを作らせるんだ!新しい、永遠のイッポリートを!それは巨大なプロジェクトになるだろう!28 人のアカデミー会員・ノーベル賞受賞者が指導する165 の研究所がこれに従事するのだ!ぼくの朽ちゆく肉体に残された2週間という時間で、彼らは新たなる永遠のイッポリート・テレンチエフの身体を準備するんだ!素材はもっとも丈夫で耐久性のあるものだ!太陽のように輝く身体ができる!強くて若い身体ができる!
その身体からは四方八方に歓喜とオプチミズムの光が流れる!そしてぼくの古い肉体が死の苦しみにのたうっているとき、世界最高の神経外科医がぼくの掛け替えのない脳を古い体から抜き取って、新しい体にはめ込むのだ!するとぼくは立ち上がり、強い新しい腕でイッポリート・テレンチエフの古い肉体をつかみ、笑いながら死の婆さんの口に放り込んでやるのだ!そして死の黄色の歯がぼくの古い肉体を噛みはじめたら、若い、永遠のぼくは、笑いながら死の目のない顔に唾を吐きかけてやる!あはあは笑いながら唾を吐きかけてやるんだ!

http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/mochizuki-no76.html


さて、問題の「パロディ」である。わたしには何の縁もない単語である。ただし、望月氏の口によってその発現が「引用」であったり「コラージュ」であったりし、またその真髄が「本物に対するずらし」であったり「対比」や「類似」であるという説明がなされ、それなりにわたしに存在が感じられるようになった。たとえばわたしが『ゴールデン・デイズ』に出てくる母親は『メッシュ』の母親と同じである、という風にいうのも広義では「引用」という考えに含まれるかもしれない。
さて、ソローキンはこんなになっても『白痴』のパロディとして扱われる。ところで多くの同人誌文化批評において「パロディ」としてその文化を研究したことに目にかかったことがないのは何故か。
1. 本当は325150ページのパロディにまつわる文章がある!その一枚一枚に同人誌がどのように元の作品を解釈し広げているのかが書いてあるのだ!そうしてぼくはそれを読んだことがないという愚か者の肌にビスを打ち込むのだ!(本当は誰かが書いているよ説)
2. 同人誌は「本物」を出し抜いていない!日本最良の漫画たちを扱って、新しいものを作り出していないんだ!(その域に達していないよ説)
3. 私は「本物」という名に素敵な漫画が入っているとは思わないわ!どどめ色で透き通っていて、空気みたいに存在感がなくてダイヤモンドみたいに砕けやすいの!(達しているものもあるけれど、そもそも大本の漫画自体がそれに足る存在感を持っていないよ説)
この問いを水間碧風に問い直すとこうなるのかも知れない、「なぜ同人誌はパロディとしてではなく常に性的な存在としてのみ扱われてきたのか」。