高橋源一郎×望月哲男『テクストと読者 ―〈読み〉の在り方を問い直す―』講演会レポート

lepantoh2007-01-15

1月14日日曜日に開催された講演会に(珍しく)行って来ました。私にとって高橋さんは一連の日本文士パロの人、望月さんは『ドストエフスキー詩学』の訳者さんという認識で、こりゃあ行かない訳にはいかんだろう、ということでお邪魔しました。教室には80名ほどの聴衆。

高橋源一郎パート 「日本の現代小説は世界一」

しょっぱなから、この講演が早稲田大学文学研究会の中でプレゼンを勝ち抜いて決定したということに「厳正なプレゼンでの審査というのは文学的ではないですね」とか、「僕は〈テクスト〉という言葉が嫌いなんです」とか飛ばしまくりの高橋源一郎さんの1時間程度の語りをまとめました。

百年の孤独 ニッポンの小説
さっそく『百年の孤独 ニッポンの小説』の話に。「文学界」で連載している18回分がまとまっているパート1は「ニッポン近代文学100年の孤独」がテーマということ。あと3年、パート3まである。
「小説について語る」ということの特殊さについて。保坂和志さんも同じような試みをしていて、日本を代表する作家二人と自分で言っちゃうけれど、が同じようなことをしている。二人で話し合って、評論ではない、小説でもない、小説家が小説について語るのは「小説論」という第三のジャンルなのだということになった。だけどこの話は保坂和志が風俗に行く話になってすぐに終わってしまった。曰く「どうしようもないですねあの人は。話終わったら風俗行って来ます!っつって」。
その本の中で「テクスト」と「テキスト」という言葉が混じっていたので全部「テキスト」に統一した。理由は「どうもテクストというと蓮實重彦とか松浦寿輝を思い出していけない」からだった気が。

ひなた
連載第二回では『JJ』を最初から読んで吉田修一『キャラメルポップコーン*1』がどこに載っているのかを調べた。
女性誌が好きで、『JJ』に一時期ハマっていた。今は『STORY』と『VERY』が好き(『CanCam』『荘苑』『25ans』なども読んでいる様子だった)。ロラン・バルトの『モードの歴史』という本があって、それに「女性誌には女性の人生が書いてある」とある。女性のストーリーがあって、雑誌ごとに違う。JJだと東大早稲田慶応と付き合って、デートして、結婚みたいな。non-noは短大生と大学生一人づつ、minaは専門学校生とかね。どの雑誌を誰が読むかというのは、きわめて重要。


吉田さんの話は、二つのタイプにわけられる。ひとつは田舎の労働者みたいなガテン系のはなし、もうひとつはオシャレな若い子の話。こっちの方がもちろんJJに選ばれる。それで、p.270〜くらいから載ってる。
でも、JJに載ってると、吉田さんの小説は全然面白くない。吉田さん本人も言っていた。「僕の小説面白くありませんね」って。
女の子の欲望が充満した雑誌の中で、繊細な人間関係を扱ってもノイズに消されてしまう。小説においてはどの雑誌に載っているかというのがまず重要。はい、ここでようやく読者とテキストがつながりましたね。

夏目漱石全集〈4〉 (ちくま文庫)
読者が真意を探して小説を読んでいるというのは思い込みで、なんとなく読んでいる人もいるかもしれない。それで、小説の置き場が重要になる。商品広告やニュースにまみれて小説が置かれた例はなかった。
明治40年*2朝日新聞夏目漱石の『虞美人草』連載で、それを朝日新聞本社に行って見た。これが非常に面白い。当時の新聞というのは今よりももっとタブロイド的な役割で、一面の半分くらいが広告だった。めくっていくと小さく文藝欄があって、そこに載っている。当時漱石が新聞連載することには色々と反対があった。やめなはれ、金に目が眩んだのですか。まあ、それもある。そこが漱石の好きなところ。
それでも漱石は、当時は一般的な主婦も新聞を読んでおり、そういう人にこそ小説を読まれなくてはと思っていた。そこが漱石のすごいところ。他にも四迷や鴎外も自身の読者に一家言を持っていたが、漱石の読んで欲しかったのは普通の人だった。物欲にまみれている人とか。それは文学の特権化を防ぐことでもある。


漱石はこう言った。
「小説のもとは小説家にしかわかりません」
こうも言った。
「評論家、小説家、小説が好きな人、文学が好きな人を相手にしてはいけません」
矛盾しているんだけど、小説なんてわからなくっても小説は読めるし、また小説家にしかわからないけれど、一度でも小説を書いたことがある人は内側の秘密を知っていて、そういう人が見るのは違う。
純粋に読まれることと、一見さんのような読者、その二者のあいだに吊り下げられるような緊張を持って、小説は存在している。

若い芸術家の肖像 (新潮文庫)
明治学院大学の中でも、国際学部で教えているから、自分のゼミには文学を学ぼうとしている人がゼロ。ドストエフスキーを読んだことがある人を聞いたら手を挙げたのが0人だった。ドストを知っている人が10人くらい。最近小説を読んだ人が4人くらいで、そのうち4人ともセカチューだった。そういう環境で授業を出来るのが嬉しい。ジョイスを読んでいる人、といって10人が手を挙げるようなクラスではやりたくない。怖い。
ゼミでは、とにかく一番新しい小説を読む、というのをやっている。だから年始には計画が全然決まっていなくって、その月の新刊を読む。そういう人と読んでいると、たとえば阿部和重の『グランド・フィナーレ*3』など、読んだときは駄作だと思ったが、授業で扱っているうちにとんでもない傑作だと思い始めた。
一見さんの読み方、新鮮な読み方の強さ、というのがある。ゼロから読むということは難しい。
真鶴
綿矢りさ『夢を与える』は、書評では意見が分かれているが、みな面白いといっていた。川上弘美『真鶴』も、最初は読んでいた人があれは死者だとか幽霊だとか言って、幻想小説だとかファンタジーだとしていたが、最終的に、細かく読んでいくと、その可能性があるだけだという結論に達した。ある解釈はあっても断言はできない、そういう作品。
パッと読みジャンルに入れようとするが、読み進めていくうちに説明できない、どのジャンルにも属さないとするようになる。
自分の意見は、小説に対する見解ではなく、それ以前から自分が小説に持っていたイメージだったりする。

ほとんどの小説が今はそうであるのだが、とりわけニッポンの小説の最も新しい分類は、素人でもわかるようにイメージから脱するように書かれている。ニッポンの現代小説は世界一。柴田元幸さんも同意見だった。なぜなら現代社会の変容を表しているから。具体的には、川上弘美さん、中原昌也さん、町田康さん……。
よって、『ニッポンの小説』2部は細かくイメージを見て域、それから3部で21世紀のあるべき小説の姿を書いて行きたい。また、それにそぐう小説も書いている。ずっと前からあたためていたタイトル。勝手に使わないでね。


予告タイトル、「●ロ●●●●●●●はない」(わたしの判断で伏字)。

■望月哲男パート 「正解があるところにはパロディがある」

高橋さん目当ての人が20人くらい退席したので馬鹿だなあと思った、望月さんの「現代ロシア文学にみるパロディ」を中心とした語りをまとめます(言っとくけど、ロシア大爆発、すごいよ)。

北海道から来ました。高橋さんのお話を聞いていて、非常に納得する点がいくつかありました。一番印象的なのは日本の現代文学が世界一だというところで、私もそう思います。ロシアのほうの現代文学は1番ではなく13番目くらいでしょう。
ただ唯一日本に勝てる点があるとしたら、文学の存在というか、読者の数かもしれません。文学の存在というのがもう少し自明で、近代文学を語られる時にも、近代とはなにか、とか、そういう枠組みとして語られます。


私はロシアのことしか知りませんので……パロディ、メタフィクションポストモダンなどの恐ろしいお題をいただいているのですが、その中で過去、文学作品のパロディとはどのように行われてきたのかということをお話したいと思います。

(参加者には全員レジュメが配られているが、ロシア文学の開放的な研究市場の例に漏れず、北大スラブ研究センターは素晴らしいまでのインターネットとの親和性を見せている。そのため、レジュメではなくそちらとリンクする形で進めていきたいと思う。それにしても、こんなのタダで公開しちゃっていいのか?)


堕ちた天使―アザゼル

  • 1.ボリス・アクーニン『F.M.』(2006)(ロシア語表記ではФ.М。もちろん、ドストエフスキーのイニシャルのこと)

ソ連解体後に文体の上品なミステリをロシアで開発し、19世紀風のレトロなミステリーを描く。
『F.M.』は『罪と罰』の違反テクストにまつわる話で、その原稿が少しづつ明らかにされる。『罪と罰』で死ぬのは2人だがこちらのヴァージョンでは4人死に、世俗的なレベルで殺人が広がる。犯人もラスコーリニコフではなく、スヴィドリガイロフ。
スヴィドリガイロフの語りのシーンは、とてもドストらしいとは言えない乾いたもの。彼はこの世が善行と悪行の算術で出来ていると思っていて、善行とは悪人を殺すことだと思っている。
この人のやっていることは「ずらし」。でも、ちゃんと探偵小説している。
さらに、入れ子構造でもある。薔薇の名前とか、ダ・ヴィンチ・コードもそうで、それを平面的に、大衆的なレヴェルでやっている。

ロリータ

(なんと望月哲男先生による完訳が公開されている。『ロシア民話としてのドストエフスキー[PDF]』。また、先生による読解はこちらにある。『現代版ドストエフスキイ:伝説と加工[PDF]』

スヴィドリガイロフは曖昧な笑みを浮かべて答えた。「でももしあなたにご自分の質問の意味が分かっていたらな」彼は急に大声で付け加えて、にやりと笑う。「彼女は移り気で、わがままで、おてんば少女特有の辛辣な優美さにあふれていました。彼女は頭の天辺から足の先まで、たまらないほど魅力的でした――髪につけるお仕着せのリボンやヘアピンに始まって、形の良いふくらはぎの下部、ちょうど白いウールのソックスのすぐ上の所にある小さな傷に至るまで。彼女はかわいらしい更紗のドレスを着ていました。ピンクの地に濃いピンクの格子が入っていて、袖は短く、スカートは広く、胴はきゅっと締まっている。さらに彩りの仕上げとして、彼女は唇に鮮やかな紅をさし、片手には巨大で陳腐な、エデンの園を思わせる真っ赤なリンゴを持っていたのです。彼女がソファのわたしの隣に腰を落として(スカートがふわっと広がり、ゆっくり下りていきました)そのつやつやした果実をもてあそび始めると、わたしの心臓はまるで太鼓を打つように高鳴り始めたのです。(p.84-85)

これはスヴィドリガイロフが『ロリータ』のランバートランバートに変貌する瞬間である。原作のスヴィドリガイロフ自体は田舎的な永遠のモチーフで、よってアメリカに行こうとする(が自殺する)。
パロディとは類似/比較である。
ナボコフとドストは作家としては水と油だったが、スヴィドリガイロフとランバートランバートは、良く見ると妻を殺したがっていて、少女趣味で、アメリカに憧れるという様々な共通点をもっている。
ここではすでにパロディをこえ、引用に近い、文章と文章をぶつけるということが行われている。

白痴(上) (新潮文庫)

  • 3.フョードル・ミハイロフ『白痴』(2001)

(こちらに関する考察も公開されている。『白痴の現代的リメイクをめぐって[PDF]』
奇妙な違和感、アナクロリズムがある、それはドストの時代とソ連崩壊後、資本主義がはじまったころが似ているからである。
登場人物の名前が全て置き換えられているが、今はインターネットから古典を自由に取り込んで、名前を一括で変換できる。そういうことをやっている。ダリの絵を論評するシーンはその揶揄である。
ここで強調されているのは社会的な『白痴』であり、もしくは生贄、被差別者から見る社会である。

ロマン〈1〉 (文学の冒険)

  • 4.ウラジーミル・ソローキン『青脂』(1999)

(PDFではないページで詳細な説明がなされている。ウラジーミル・ソローキン『青脂』。個人的に一番キてるなと思った作家。あらすじを読めばわかる。)


2068年、人類がエネルギー確保のために必要としている物質、「青脂」。「青脂の産出法は限定されている。すなわちまずロシアの作家たちのクローンを作成し、彼らに執筆させた後、仮死状態になったその肉体に、ライトブルーの脂身が蓄積されるのを待つのである。」これはロシア的文学中心主義への皮肉。そのため、ドストエフスキー2号、チェーホフ3号といった怪しげなパロディ文学が次々と生まれていく。


ルネ・ジェラールの「欲望の三角形」のように、ドスト的な第三者を必要とする恋愛が、ドストエフスキー2号作の『シュトレーフスキー伯』では、「『白痴』を思わせるような宴席における中年の伯爵と奔放な女性との対決シーンに、突然ドイツ人の科学者と小人が登場、人物たちを3人一組に縫い合わせることを提案する。そして実際伯爵は、他の端役の二人と合体して、スイスでの新生活に向かうのである。ちなみに執筆後ドストエフスキー2号の体は完全に変形、その後3〜4カ月の仮死状態期間に、背中の下部と腿の内側に6キロの青脂が蓄積されると予測される。」

このような作品にはパロディだけではなく、コラージュのように並べ立てる、発見的な面白さがあります、
使う人によってはユートピア的になるし、また対比になる人もいます。
ロシアでは文学がもっと身近で、しかも学校でそういうテキストを扱って、これはどういう意味ですか、というような質問をする。答えが共通認識としてあるんです。答えがあるものにはパロディがあります。

高橋源一郎・望月哲男 対談 (司会:早稲田文学編集長 市川真人

ほんの一部ですがご紹介します。

市川:高橋さんは、矛盾すると仰いながらも、コアな読者のために小説を書いてはいけないと仰っています。一方で望月さんは、パロディの読者は授業などで共通認識を持っている、と仰っています。
続 明暗 (新潮文庫)
高橋:望月さんの出したテキストは面白いね。これははっきりとしたパロディ。自分も昔やったなあ、って思いながら読んでいたけど。受け入れる層があるってわかって自信を持って書いているね。80年代の日本なら出来たけど、これを今やったらまだやってるの?って思われちゃう。時代の空気がそういうのを決めるんだけどね。
今の日本の若者にとって、ドストはもう現役じゃない。漱石と太宰だけがかろうじて現役。こういうのは読む前にイデオロギーを注入されているんだけど、今は注入されないから古典にはなりえない。自国文学すら古典になりえないのは日本だけで、それが本当のポストモダンなんじゃないかと思うけどね。
望月:日本のことは本当に存じませんで。水村さんとかはまだ…?
高橋:水村さんの『続・明暗』は、漱石から続けて読んだとき、落差が少なくってすごいの。でも、それだけなんだよ。しばらくすると飽きちゃう。完璧すぎて、爆発がない。あまりに精緻に文体模写がされていて。ロシアのパロディには爆発があるね。


市川:ところで、ソローキンの“スターリンフルシチョフの性愛シーン”のパロディについてですが。これを読んで、やおいという文化を思い出した方も多いんじゃないかと思います。

「君のオーデコロンの匂いだ・・・・・・」スターリンフルシチョフの浅黒い頬骨のところを撫でた。「ぼくは今でもこの匂いを嗅ぐと気が狂いそうになる」
 「ベイビー、たとえどんなことでも、おまえをどきどきさせられるんならうれしいよ」フルシチョフスターリンのシャツのボタンをすっかり外すと、毛無垢じゃらの強い両手で柔らかなシルクシャツを脱がせ、指導者の毛の無い胸に唇を這わせた。
 「モナミ、ぼくの君への気持ちは、何物にも喩えがたい」スターリンは目を閉じた。「それは・・・・・・まるで恐怖みたいだ」
 「分かるさ、ベイビー」フルシチョフスターリンの小さな乳首に語りかけ、それから大きな肉感的な唇でそっとそれをくわえた。
 スターリンが呻く。(中略)
 「坊やはなにが怖いの」
 「太いイモムシが・・・・・・」スターリンはすすり泣く。
 「太いイモムシはどこにいるの」
 「おじちゃんのズボンの中」
 「イモムシはなにがしたいの」
 「入りたいの」
 「どこに」
 「子供のお尻に」

望月:(ここで望月氏は、これが日本由来であるかどうか?という風に質問を取り違えてしまったようだが、結果的には有意義な答えになっている)わかるところとわからないところがありますが……たしかにソローキンは東大で教えたこともあり、日本文化に対して興味を持って、コギャルなどに感動を覚えていました。やおい、という文化を知っているかどうかは知りませんが、その可能性はあると思います。しかし、これは全体主義の歴史を再構築・脱構築するというもので、ソ連時代の暴力的なもの、サディズムマゾヒズムから来たものだと思います。本当は読んでいただきたくなかったのですが、グロテスクの見本としてお出ししました。
ホモセクシュアル的なもおは、1980-90年ごろからありました。日本経由ではなく、ソ連的な暴力、ホモセクシュアル、権力とセックスというものだと思います。
ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)
高橋:僕もデビュー作、『ジョン・レノン対火星人』っていうんだけど、スターリンを描いたような記憶が。今はムリだね。
過剰に性的なものっていうのは、政治と結びつく。自由と言うのは二種類しかない。法に代わる政治的な自由、権力者による自由と、性的な自由の二つ。マルキ・ド・サドというのが一番良い例で、彼はフランス革命のとてもラディカルな参加者だった。
ロシアでは、古典も現役だけど、プーチン政権があって、政治が現役。日本では、政治が現役じゃなくなった。日本の現代文学が優れているのは、政治が消滅した唯一の状況で描かれているから。僕、早稲田、30年ぶりくらいにきたんだけど、昔ヘルメット被って襲撃に来た(会場笑)。政治がアライブだったんだよね。
政治がなくなったとき、性的なものはなくなる。残ったのは、それはただのスタティックなポルノ。


(……とまあ、こんな感じでした。けっこう端折った。感想は次の日に書きました。最後に、今回の望月さんの発表を簡単に理解するのは、ドストエフスキーのいる現代ロシア文学というページが一番オススメ。とりあえず、日本いろいろ失くしすぎ、っと。)

*1:後に『ひなた』に改題

*2:講演会では違う年数を言っていた気がする

*3:だったと思うが