村人を次々と惨殺する小説とアリュージョンについて

lepantoh2007-08-10



■導入――少し前、ひとごろしが横行したような気分があった頃のはなし

今年に入ってから、わたしが働きだした所為もあるかもしれませんが、矢継ぎ早にものごとが起こっては消えていくので、わたしのなかでは色々な事件が、グロテスクに、未消化のまま胃の中にあり、それがわたしの体中から、腐臭に似た悪臭を放っているような、そんな気がしてならないのですが。


とにかく、いわゆる「猟奇的な殺人事件」というものが、立て続けに起こったように記憶しているのですが、その後、大臣が自殺したり、年金について責任の擦り付け合いをしたり、参院選でだるだるとした人が惨敗したりしているうちに、なんだかよくわからなくなってしまい、忘れる方が幸せというか、もっと面白い事件が起こっているのでそちらに振り回されたほうが有意義で満ち満ちた人生を送れそうな感じじゃない?、というような、場の雰囲気を、わたくし独り、澱んだ時間のなかから、ぼんやりと眺めている次第なのでございます。


そういうわけでわたしは村人を次々と惨殺する時代小説を読むことにしたのです。

ロマン〈1〉 (文学の冒険)

■『ボウリング・フォー・コロンバイン』を誉める傍らで、バージニア工科大学・銃乱射事件の犯人が『タクシー・ドライバー』に影響された、とか言ってみる構造

話はぶっとびますが、わたしには、ずっと気にかかっていたひとつの新鮮味を失わない驚きがあります。それはVirginia Tech事件に関して、わたしが最も好きな物書きのひとりである町山 智浩さんが「これを読んだ限り、コロンバイン銃撃の犯人のように映画化されるほどのカリスマ性はなさそう」と仰ったことでした。そこで、「文章力も精神的にもあまりに幼すぎる」と評された文章は、私には村人を次々と惨殺する小説を描いたひとりであるウラジーミル・ソローキンの文章とどこか似ているところがあると思いましたし、また非ネイティブのアジア人が欧米に出て行く際に味わう疎外感や抵抗感という意味で、わたしは彼の孤独を少し理解できるように思えました。


そこで、彼が持たずして、「コロンバイン銃撃の犯人」が持っていた(という)、「カリスマ性」とは一体何なのか、考えてみました。


しかし、いくら考えてみても、わたしには、たとえば『ボウリング・フォー・コロンバイン』を作ったマイケル・ムーア監督や、出演したマリリン・マンソンにはカリスマ性があると思いますが、コロンバイン銃撃事件の犯人たちに、さして特別なカリスマ性があるとは思えません。そこで、彼らが何故『ボウリング・フォー・コロンバイン』で取り上げられたかを考えてみました。それは、彼らがアリュージョンを体現していたから、です。つまり、引用部におけるカリスマ性=アリュージョン、ということになります。
これまたわたしの好きな黒田硫黄が著書で鋭く指摘したように、『ボウリング・フォー・コロンバイン』の主旨は、「ロックを聴いていたら、マリリン・マンソンが責められた。だが犯行前に彼らはボウリングをしていた。ならばボウリングもしてみなくてはなるまい」という実地経験主義によるアリュージョンのやわらかな否定にありました。ところが、町山さんは、マイケル・ムーア作品の紹介から彼の作品への好意がうかがい知れる一方で、彼自身は、アリュージョンに強い興味を示す評論家であるように、わたしには、見受けられるのです……。
それは、町山さんのブログをご覧になっていただければ、容易にわかることでございましょうが、一番の例に、「これを読んだ限り、コロンバイン銃撃の犯人のように映画化されるほどのカリスマ性はなさそう」と書かれた日の次の日の内容を挙げることもできましょう。しかしながら、そのことは全く以って、何の非難にも値しないことであるのは、皆様ご承知の上です。そういったものは、いわば評論家としての嗜好の一種であり、当然、責められるべきものではありません。


しかし、「もし」、アリュージョンが「カリスマ性」や、それに準ずるプラスの評価と関係していたならば? 私の立場は、「それ」は同時にただの嗜好でなくてはならず、物事を切り取る物差しのひとつにしか過ぎないということです。

■ソローキン『ロマン』におけるアリュージョンの崩壊

ロマン〈2〉 (文学の冒険)

さて、このように、惨殺とアリュージョンは切ってもきれない関係にあり、人々は、惨殺を見ればアリュージョンを探し、アリュージョンを見れば惨殺を期待します。そこで、二度と読み返す気にもならない、吐き気を催す惨殺小説の紹介をしましょう。


その小説こそ、以前、望月哲男先生の講演レポでもご紹介したソローキンを、望月先生自身が翻訳なさった『ロマン』です。
『ロマン』にはありとあらゆるロシア文学、および「ロシア的なるもの」へのアリュージョンが溢れています。オープニングの墓場の描写からすぐに、バフチン的な大地《墓−母胎》を媒介としたロシア的な自然観を参照としていることが知れます。特にプーシキン作品へのほのめかしは強く、ヒロインの名前が「タチヤーナ」というくらいで、その「タチヤーナ」を口説き落とすシーンには、わたしも思わず身震いをしてしまいました……。


小説の前2/3分における細緻な団体/人物描写、ロシア的イメージおよび口論、そして恋人達の燃えさかる熱情を語る饒舌な筆致は、ソローキン自身の見事な「技術力」に支えられているものであり、同時にそのストーリー運びのある種の王道さは、古典文学の読者としての資質の高さを思わせます。そして、繰り返される引用/ほのめかし/パロディが、その技術力と資質を下から支えているのです。


そして唐突に虐殺は始まります。


きっかけは、主人公ロマンが結婚式で贈られた斧を見て何かを悟ったことなのですが、彼が何を悟ったかはわかりません。前半で、「タチヤーナ」と出合ったとき、もしくは、森の中で狼と対峙したとき、わたしたちは、彼の考えていることを仔細に知らされ、彼自身は考えを見透かされていました。しかし、斧を見た途端、彼の内面の描写は消え、彼の考えは謎のままとなり、というよりは、彼自身何も考えているようには見えず、単純な行動を繰り返すようになります。一人づつ、部屋に人を呼んで、斧を頭に振りかざし、それがばれると、手当たり次第に斧をふるい、全員の体を細切れにし、一部位づつ教会に運び、そして教会でネクロフィリア/スカトロジー的な“反倫理的行為”を繰り返すうち、文章は、以前の華美さも優麗さも捨て、けっしておどろおどろしくなることなく、極端に細分化され、単純化され、最終的には、“ロマンは----した。”という主語−動詞に帰結し、それ以上の発展を見せなくなります。


斧を発見してからのロマンの行動の描写はもはや「小説」と呼べる代物ではなく、そのため“反倫理的行為”も、こちらの世界にいる身には辛さを覚えますが、一方でどこかリアリティや重みを持たず、ただの文章の羅列と繰り返しにまで意味が薄まっています。それだけならただのつまらない小説なのですが、前半の完成度があまりに高いため、「タチヤーナ」の愛の獲得にむけ奮い立っていた心を鎮める方法もなく、読み終わったあとはただ単に「小説」というつくりものの脆さを思い知るのみでした。


ソローキンはマイケル・ムーアよりも過激な方法でアリュージョンを、というよりは惨殺にまつわるアリュージョンを破壊しようとしているといえます。しかし、彼の『青脂』プロットなどを読むと、一方で彼が文学を破壊しつつ新たなアリュージョンの形態を作り出そうとしているのがわかります。

■アリュージョンの挫折と惨殺について 町田康『告白』

告白

一方で、町田康の『告白』も、村人を惨殺する小説ではありますが、ソローキンのそれとは大きく印象を異にします。


一言で言うと、「小説している」のです。
とりあえずのところ、主人公・熊太郎の内面は最後まで“語られようとされて”います。(ネタバレ)それでも、最後にはそんなものはなかったというか、彼の思弁的なレトリックがレトリックでしかなかったというか、とにかく彼の奥底に何も無かったという結論になるわけですが。


しかしながら、この小説にはほとんどアリュージョンが存在しません。むしろ、彼ら自身が唄となって語り継がれているのです。もちろん、主人公・熊太郎は全編を通してなんとなく自分は大楠公楠木正成)の生まれ変わりだと思ったり思わなかったりしていますが、彼自身の行動には影響を及ぼしたり及ぼさなかったりで、そういった揺らぎのある中途半端さが、この小説のもっとも読み応えのあるところだと感じます。


しかし、人間というのは不思議なもので、これだけアリュージョンの肯定的評価について否定的な見解を述べ続けた私でさえ、いざ熊太郎が何か確固とした指針や憧れ、もしくは見本・手本のようなもの、あるいは信心なしに惨殺に到ると一気にものごとを理解できなくなります。わたしの知識(と、多分の偏見)を以ってすれば、何か名のある宗教か、もしくはカルトと呼ばれるものに浮かされて人を殺すことは理解できるかもしれません。しかし、熊太郎はあくまで自分の宗教と自分の思い込みに従って行動しており、それが真実であるかどうかの判断も作中ではほとんど熊太郎によってなされるため、読者に侵入の余地はないのです。


それでも、熊太郎が十人斬りに走った理由がわからないかと言えば、わたしには(小説から得るにしては)十分にわかったような気もします。

■『理由を知りたがる』ことの終わりと始まり

不思議なことですが、今回取り上げた3つの作品において、惨殺とアリュージョンが関係するものは、ひとつもありませんでした。
そういえば、妹を切り刻んだ浪人生が、何故殺したのか自分でもわからない、と言っていましたね。そうすると、わたしはそのわからなさに耐え切れず、また理由を探そうとしてしまうのです。


※惨殺は法律違反です。