佐藤史生「死せる王女のための孔雀舞」

死せる王女のための孔雀舞 <佐藤史生コレクション>

死せる王女のための孔雀舞 <佐藤史生コレクション>

久々に懐かしの24年組/ポスト24年組の世界に戻ってきて、どっぷりと浸ってしまった。佐藤史生が逝去したとき、人々が口をそろえてこの作品を誉めそやしていたので、手に入れていなかった自分は、悔しく思ったものだった。とはいえ同時に、佐藤史生の作品を全部読んでしまうのも嫌だった。生きる楽しみがなくなってしまう気がした。今回、「佐藤史生コレクション刊行開始」第一弾として、ラヴェルから題を採った「死せる王女のための孔雀舞」が復刊されたのだけど、一読して、あまりの面白さに、そしてもう読めない事実との落差に、やはり死にたくなった。

というわけで急いでキーを叩くが、久々にこの手の話をするので、少しおさらいしていこう。

■なぜ24年組/ポスト24年組がスゴイと言われるのか

24年組には、作風上の特徴がある。SF、ファンタジーや歴史ものも多く、現代を舞台にしない。むしろ、そこから現代社会のあり方自身に疑問を問いかけるような、実験的な設定を多く行っている。主人公が少年であることも多く、またほとんどの場合、異端児である。この少年という表象に関して、私は宮迫千鶴の言う、「『少女』のある時を描くために、間接話法ともいうべき回りくどい方法すなわち「少年」のフォルムを援用した」という説を採用している。つまり、見た目は少年だけど、中身は少女だったり、少なくとも少女が感情移入する対象として造られている、ということ。異端児という造形は、それを円滑に行うためのひとつの鍵でもあるが、同時に自己否定とナルシシズムという相反する感情の表出でもあると、私は考えている。

■なぜ佐藤史生がスゴイと言われるのか

その件に関しては、追悼文 id:lepantoh:20100408 にも記載した。24年組のすばらしさは、究極のバランス感覚にある。とことんエンターテイメントでありながら、純文学のような心理描写の匙加減。作者の趣味の世界と、社会に伝えたいメッセージの塩梅。心をくすぐられながら、無為に時間を過ごすのではなく、濃密で深い読書体験を味わう事が出来るのだ。
そこに石を投げ込んだ人が佐藤史生であり、だからこそ私は佐藤史生が好きなのであった。自身すらも切り裂く聡い自己批判の刃を持ちながら、台詞は極上の詩を吟じている。リズミカルな音符の中に、自分自身でも気づいていなかったような本音を察知して埋め込んでいるような作家だった。

■「死せる王女のための孔雀舞」における二項対立の融合

この作品で、佐藤史生が描こうとしたものは、少女のウチとソトが、ゆらぎの状態を経て、融合していく様である。
ここでいうウチとは、作品の中では、幼い主人公の七生子の自己中心的な態度として現れる。

「(画塾で)そこにある作品かたはしからけなして回るような子供だったんだから」
「絵に夢中になりすぎて他の一切をないがしろにしたから」
「勉強はしない 友達もいない 先生も両親も無視して…」
「できそこないの私は みじめで腹がたって 自己嫌悪と公開と―物置にとじこもってだれとも顔をあわすまいと思った」

少女漫画は伝統的に、自らと同種の者を嫌悪し、異種のものを神様同然に崇め奉るか、さもなくば惹かれることを恐れるあまり、きっぱりと拒絶する傾向にある。佐藤は主人公に他の24年組作家にはなかった等身大の惨めさを植えつけることに成功している。そのことにまずは驚いた。
「死せる王女のための孔雀舞」では、2人の父親を持つ七生子が、それぞれの父との同質性と異質性の中で思春期らしいゆらぎに流されている。様々な対立を経て、忌み嫌う存在だった父との同化を見出す部分は、作中で言及されているとおりオイディプスコンプレックスの要素も含む。このことは驚くべきことではなく、むしろ24年組には、家父長的父との対立を描いた作品の方が圧倒的に多い。この理由は1.作品の時代設定から自立した女性が登場しづらかったこと、2.主人公が自立した女性の擬態として往々にして少年の形態をとって現れたこと、3.彼らの自主性に立ちはだかる自主性を持った存在が父親しかいなかったこと、などが挙げられる。結果的にこの傾向は「対立そのものが目的」という行動様式に収斂することも多く、佐藤史生も「レギオン」にてそのような達成を見せている。
ところが、聡明な少女の形をとって現れた七生子は、対立のイデオロギーにやすやすと身を任せることなく、かわりに叔父の家の「逃避」を行う。作品を通じて表現される七生子の「ゆらぎ」の正体をほのめかすのが、叔父の家における彼女であり、そこでは閉じ込めたはずの子供の頃の自身が顔を出すことが許されるのだった。しかし七生子自身は、若き自分との再会を自らに容易く許しているわけではない。いわばそれは無意識的な回帰であって、意識の支配する分野――鬼の学級委員長――としての力(=ソトの自身)が、叔父の家での自身(=ウチの自身)に及んでいないことは、彼女にとって不覚の事態だと言える。自分が、真の部分では子供の事から変容していない、と類に指摘され、彼女は怒る。彼女の怒りは、ソトとウチが出会おうとする時の違和感に対する彼女なりの対処法である。鉄面皮のソト面ばかり良い父親が、「それが恋愛というものだ」と妙に生なましいウチの事情を言い放った時、七生子が怒るのもそのためである。
絵の事ばかりを考えて他を省みなかった、ウチ向きの七生子が、自分の意地を通すばかりに母に負担をかけ、自己嫌悪の帰結として、ソト向きの七生子が誕生した。そして、自身の評価を最優先するウチなる七生子は物置に閉じ込められ、皆に好かれ他人からの評価を重んじるソトの七生子で通している。とはいえ、家の中でもソトを貫く父親のようになるのは行き過ぎに感じられ、かといえども、努力している手前、昔のようにウチ向きのままであるとは思いたくない。七生子はゆらぎの状態にある。

そのような状態ののこのもとに彼女へ揺れる触媒として毎日その一話毎にキャラクターが登場させられている。雨男の類、妹にあたる水絵、マドンナ、そして諸井先生。

類は、昔の七生子の崇拝者であり、今の七生子に昔のウチ向きな七生子を肯定させる。

七生子 小さな七生子を 物置から出してやろうか……

水絵は、七生子が苦手に感じていた、ソト側の父 彬彦(あきひこ)を肯定させる結果をもたらす。
マドンナとの出会いを経て、七生子は他人を融合させることに成功し、1枚の絵を描き出す。
そして、ついに諸井先生から、諸井先生とも、叔父の公春とも似ているが、正反対の精神を持った人物として見出されることとなる。子供の七生子と、今の七生子が合致したハイブリッドな存在として。

「彼はぼくを軽蔑していた ぼくがあまりに彼に似ていたもので また似ているという理由で彼を愛し求めたので」
「なぜ……自分を愛してくれる人を軽蔑したりするんです?」
「あまりに深く自分自身を憎んでいたからね」

彼と、物置にいる七生子は、同じ経験をしたもの同士であるにもかかわらず、七生子はもはや、子供でもなく、まじめな委員長でもなかった。彼女は、まったく別の方法で、諸井と公春を救うことになるが、同時にそれは、水絵が公春につかまったようなことは、もう七生子の身には起こり得ないことを意味していた。七生子は諸井に捕まる必要のない存在になったのだ。


追悼文にも書いたとおり、佐藤史生は、私の知る限り最も単刀直入に「自身の否定」や「自身の嫌悪」という主題と向き合った作家である。そのようなバックボーンがなければ、なぜ、わざわざ少年を主人公に、SFやらファンタジーを読まなくてはならなくてはならなかったのだろうか?私は彼女の正直さを愛するが、それゆえに彼女が怖い。


この作品に描かれている、理性に裏打ちされた、分別のある態度には、いささかの寂しさを感じる。地に足が着きすぎているのだ。萩尾望都の読書体験は、沈むといっては何だが、引きずり回され、巻き込まれ、堕とされる体験である。佐藤の、自らを破滅させそうな鋭い知性を、一部もてあましながらも、過度なナルシシズムを感じさせず、好感持てるキャラクターを描く手法が見事過ぎるのだ。「死せる王女のための孔雀舞」は、誰もが子供の頃に持っていた自己中心的な世界観を、世界に折り合いをつけ始めた自身の中に再生させようとする、魅力的な試みであった。単なる成長物語として読むには、言葉の端々が鋭すぎて、いつまでも心が痛い。