厄介そうな病気にかかった時芸術に助けられた

どうも自分は病気らしい。これが分かったのは今週のことで、発覚した日は泣きに泣いたが、今は落ち着いている。確定診断も出ていない今から、受け入れる心の準備がある程度出来てきた。そのことと芸術が深く関連しているように思えたので、記念に記しておく。実をいうと、STAP細胞の話が出た頃からこういった話をしたかったんだけど(虚学と言われる文学部の価値について)。
以下、確定診断が出ていないため、あくまで予想した病気であった場合、である。
今、自分は半身が調子が悪く、バランスが取りづらかったり握力が減ったりしている。ただ今は全盛期の95〜98%くらいの調子で、走れるしジャンプも出来る。不調は投薬で抑えられるという。今後はこれが悪化する可能性もあり、身体障害の他、視力が低下したり、思考にも影響をきたす可能性があるという。進行の速度はまちまちで、半年で現れる人もいれば、何十年後でも見た目は健康な人もいる。医学の進歩で、そういった希望は以前より抱きやすくなっている。
そのことを聞いたとき、自分のライフワークとしたかった文学や芸術、漫画の研究をあまりやってこなかったことを少し後悔した。しかし、インプットだけは続けていて、特に舞台は年に1、2回は海外に見に行っている(訪問地がNYとロンドンばかりだ)。
よって、いずれ自分が上手く歩けなくなっても、まぁ、gleeのアーティーみたいになるだけだろう、と思えるようになったし、映画で一番好きなキャラクターは「ガタカ」のユージーンなんだけど、彼も車いすに乗っていた。今年の1月、ついにジュード・ロウが、これまた私の好きなヘンリー5世を演ってくれたので、見に行けたのだが、やはりいい役者だなと思った。ヘンリー5世は、最初はグローブ座で見たのだが、劇場で見ると爆笑の連続で、自分のシェイクスピア劇はお固いという偏見を打ち破ってくれた大切な作品なのだ。それに、今は電動車いすもあることだし。買う金がないかもしれないけど。
視力については、今は兆候もないし、できれば保持したいが、スティービー・ワンダーのように、視力がなくても存在感を残す人もいる。愛するハンタのコムギちゃんだって目が見えないし。自分の仕事はパラリンピックに関わる部分もあるので、今から点字などに興味を持っていければいいと考えている。それに、盲導犬もいるし(そんなに簡単に借りられないか)。
ミュージカルは、見るのにはお金がかかるくせに、劇場内では、お金がない、苦しい、つらい、そういったことが語られることが多い。なんにせよ、「RENT」で「NO DAY BUT TODAY」と一緒に歌ってきたのに、自分だけ明日、明後日、10年後を同じように生きようというわけにもいかないのだ。
自分は常々、色々な芸術を見ようと心がけているのに、なぜ(一部の)漫画とミュージカルだけこんなに好きなのか疑問に思ってきた。そしてその理由のひとつが、異端なもの、弱いものの立場に立つ姿勢であることを突き止めた。そういった立場に共感するのだ。しかし、果たして自分は異端なのか、弱いものなのか。もちろん色々なことが上手くいかず、道を踏み外したこともある。その時、そういった立場に立てるということに、不思議な嬉しさとやりがいを感じる。最近は、年に2回も海外に行くなどというぱっと見ラグジュアリーな生活とも言える暮らしをしてきた(いや、自分は節約家だし、車もないし、バックパッカーなんだけども)。あらためて、自分の中に弱さがあるということは、とても自然なことに感じる。
自分の中で苦しいことの1つは、病気が軽いことを祈りつつ、最も悪いケースを想定し受け入れようとする心の中で現在引き裂かれていることだ。これは恐怖という名前にふさわしい。そして最も悪いケースの場合、毎日、出来ないことが増え、弱くなっていく肉体と向き合わなくてはならない。とはいえ、これから失望や絶望を繰り返すだろうが、長いことすばらしい芸術に触れ、築かれた自分の価値観に支えられ、病気に立ち向かいながらも、同時に受け入れていけることを願う。