無垢で純真で汚れをしらず清く正しく美しく名もなく清楚なアナタ、『プラネテス』

ああ、こんなにもひとつの漫画に対して怒りが冷め止まないのは久しぶりです。昨日、山岸凉子の『月読』がとても面白かったので、ついでにその勢いで『プラネテス』のあの4巻を読んでみたのですが……もうダメですね。売りましょうコレ。自分的有害図書認定。あー気持ち悪い!
例えば私はまだ10代で、そのことを利用して、適当なことを書く際にはさりげなく自分の年齢を付け加えたりと卑怯なことをしますが(笑)、正直19にもなって未だに(外の人としてではなく)片足突っ込み気味に少女について語ったりしている自分の「少女」っぷりに嫌気がさすことはしばしばです。そんな私にとって、この漫画のあまりにも堂々とした「脱・大人、続・子供宣言」はあまりに「大人」向け過ぎて気持ちが悪いのです。
つまりこういうことです。

考えずにはいられない ちゃんとした大人になれない人は どうしたらいいんだろう(フィー・p158)

ちゃんとした大人、というのは「このクソみたいな社会(p193)」に馴染んでクソみたいになった人間を指すことは明らかです。ところがフィーはフィーなりに大人になっており、爆弾を見過ごせるようにまでなっていたのです。ただし彼女は、イノセントな息子アルに触れて、子どもに逆行するぞーと決めたわけです。ところが、未だイノセントであるアル、そして社会と適合できない程無垢だった叔父と違い、フィーは一度それを失っています。そうして自分の周りの者を「クソみたいな」社会と大人、に定義して、汚くすることで、彼女は自らのイノセンスを回復したのです。
これっていかにも“ちゃんとした大人”が好みそうなストーリーだなぁ、と。
本当に「大人の心と一緒に 子供の心を持ち続けてい(P244)」る人間は、コレを読んで心が動くハズがないのですから。ちなみにここでの「大人の心」というのは、質的なモノではなく完全に量的なモノです。作中では「クソみたいな大人」の他には、「子どもの頃忘れてしまったものを取り戻したい大人」という心しか見当たりません。つまりこのラストのモノローグは、「子供の頃に戻ろうという心と一緒に子供の心を持ち続ける」という矛盾すら含んでいると考えます。
 
もっと単純に言えば、「気に入らないことはやらない」フィーと、「望みどおりの職業に就くことができる人間などそんなにいない」というサンダース、どちらを受け入れられるか、ということ。
 
私はこれからもバシバシ汚れていこうと思います。無垢になんて、死んでもなってやるもんか。
★関連 id:lepantoh:20040228(それでいいのか、プラネテス(4))
↑基本的にこの文章は焼きなおしでこちらを読まないと理解し辛いかと思います。toroneiさんの所から来た方の為に4/4追記

月読 山岸凉子

イノセントな須佐之男は放逐され、月読は自らの中に切り捨てられない情念を秘め、やはり高天原を去る。イノセントでいようとする女・天照は、保食神を殺させ、須佐之男との情事が発覚すると須佐之男に罪を被せ、岩戸に隠れることで自らの潔白を示そうとする。やはり根底は萩尾と通じるものがある人だ。素晴らしい。