私の論について考える

私の論は多分普遍性がないです。
というのは、論旨が常人には理解しにくいと言うことではなくて、ただ単に、その書き方に問題があると考えます。
私の文章を読んでフェミニスティックだとか哲学的だとか言う人がたまにいます。が、私は無学なのでフロイト平塚らいてうもさわりくらいしか知りません。だから文中で彼らの概念をお借りすることはまずありません。もちろん彼らと共通することはあるでしょうが。だから私はフェミニストではないというよりフェミニズムを知らないので何とも言えないというのが本当のところです。
私のような人間は本来理論武装するべきなのでしょう、しかし私はそれをしませんでした。ただ面倒だったからの様にも思われますし、カテゴライズへの危機意識があった為、偉大な先人の、体系化された思想形体に踏み込むことへの嫌悪があったことも理由のひとつでしょう。
自論を語るとき、たとえば「これはユングの言うところの」「フロイトの言う」と語ると、文章は小難しくなるけれど、1.論の説得力が増す、2.大衆の同意に基づく普遍化された概念なので、論旨を明確に理解しやすい、というメリットがあります。しかしあまり用語を使いすぎると論旨の明確さは増しますが読みにくくなります。だいたい私はそういう論を読めません(笑)。そういった論は同じ学術タームを共有する限定的な対象には有効でしょう。
さて私の論はというと、そもそも学がないのに加え対象もよくわかりません。しかも性格的に「それでも客観論」を貫き通すことができないんです。それってインチキでしょう?よって私の論は全て「ワタシ」基準の、自分語り的、主観的、独断的、感覚的、根拠レスなモノになってしまいます。一応、根拠レスを避けるためいつも資料を集めようとはしているのですが、そうすると引用とシュミラークルの問題が関わってくるんです。
というわけで、私の論はくだらないということを自分語り的、主観的、独断的、感覚的、一応根拠アリで語ってみました(な、何の為に!?)。私は自虐的な人間だと思いますとも、ええ!