文学、遅っ。

そしてその現代ファンタジーにもふたつほど特徴があったようです。まずひとつは、吸血鬼ものがきわめて多いこと。もう少し抽象的に言うと、血を流す、血を交換するというモチーフを中心に据える作品が多いようです。しかもそこで「痛さ」の描写はほとんどない。もうひとつは、同性愛ものが多いこと。そもそも異性愛は少数で、しかもセックスを描いた作品はほとんどない。(中略)

血の交換が描かれながら、痛覚が回避される。それは、血のモチーフが、身体性の回復といった主体の問題系(リストカット)ではなく、むしろ、もっと非身体的な情報交換のメタファーとして描かれていることを意味するのだと思います。サイバーパンク以降よく言われていることですが、現在の私たちは、自分たちの身体を、トラウマを刻まれた性的身体であると同時に、さまざまなデータがそこを通り過ぎる結節点のようにも捉えている。いままで純文学では前者のほうが好まれてきましたが、ここで血の交換という流体的なメタファーが力をもってきたのは、若い書き手の関心が後者のほうに移動しつつあるからなのではないか。だとすれば、異性愛の問題があまり描かれない理由も理解できる。文学の問題は結局はコミュニケーションの問題であり、そして会話(言葉)を超えたコミュニケーションというと普通は性と暴力しかないのでどうしてもセックスやケンカのシーンが多くなりがちなのですが、ここでもし、純粋な情報交換の身体的表現とでも言うべきものがあるとすれば、その表現ばかりが突出して現れてきてもおかしくはない。セックスは必要ない。むろん生殖の必要もない。私たちの身体は、性的な身体以前に、何よりもまず、血液という情報媒体が満ちた流体的なデータバンクなわけで、ファウスト賞応募作の総体が何となく向かっていたのはそういう世界認識なのではないか。
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文学は今さらポーの一族な訳ですねというのはさすがに冗談ですが。ポーの源泉はエドガー・アラン・ポーですしトーマの源泉はヘッセですし寄宿舎〜悲しみの天使〜ですし。インタヴュー・ウィズ・バンバイアもありますしね*1。だからこそ今吸血鬼なんでしょうね。文学、ちょっとそれは遅くないか?それとも早いのだろうか。
まぁなんというか、MOON CHILDエスケープでなくて映画のほうとお決まりのフォロー)とGacktの文学界への影響には計り知れないものがあるのですね、というか、これは文学がGacktを模倣しているのか、はたまた文学がGacktと同レベルの思考軍団なのか、もしくはGackt様が素晴らしい文学に対する先見の明を発動させているのか。*2『そして粛清の扉を』とか受賞させてるからこんなことになるんだ(しつこい)。というわけで、
 
鋼の錬金術師』もとい荒川弘さん、小学館漫画賞受賞おめでとうございます!
 
漫画読みとしては漫画は文学の数歩先に行っているなと思う。ちなみにメフィスト賞第一回受賞者の森博嗣氏は萩尾望都の大ファンで「20世紀が生み出した最も偉大な作家は萩尾望都」「僕の文学は萩尾望都の模倣でしかない」と語っていましたのですよ*3。って私が得意げになることではないんですけれど、ものすごく嬉しかった。しかし上記の東氏の身体性云々って普通に岡崎京子を思い出さずにいられないな。竹宮惠子『天馬の血族』もテーマとしては同じようなものを抱えているけれど、あれが書いているのは「血の交換が描かれながら、痛覚が回避される」どころか猛烈に痛い精気の交感とか身体の同化で、血の情報っていうのも結局性交が重要だからやっぱり先に進んでるんだよ僕たちは。って私が得意げになることではないんですけれど。ハガレン少年魔法士がその最先端にいるであろうことは指摘した通りです。あー嬉しい。

*1:あれ、日本の作品がないぞ?

*2:ちなみに私はGackt嫌いとかバカにしているわけじゃないので誤解なきよう。ムンチャは当然映画館で見ましたし、マリス時代のUVは家宝だし、マリスPVやPOP JAM出演も標準録画してありますし、たかの友梨ヌードだって持ってますよ。とかいいつつCDは聞いたことがないのですが(笑)マリスは面白かったので好きでした。

*3:氏の愛犬の名前は都馬(トーマ)らしいのですよ。これは陸橋を渡るときとか雪の日は自殺しないように気をつけなくてはいけません。あとルネッサンス関係とヒューマニズムとか悪魔学とかの本を近くに置いておくとラブレターを挟む危険性があるので注意。