戦う女の子は少年化した少女なのか?

松谷さんのコメント欄id:TRiCKFiSH:20040129#cは必読です。
私はここでは少年漫画の逆ジェンダー表象が、まるで少女漫画の昔に遡るようにジェンダーレス化・ファンタジー化していく可能性、そして武装練金の津村斗貴子さんのイメージを辿ると吉田秋生に行き着くことを指摘しました。
で、気になったのは「戦闘美少女」。松谷さんは戦う女性と分けて考えていますが、私が気になったのは「女が戦う」ということ自体ですね。しつこいですが、そもそも抑圧からの逃避と解放の手段として生まれた少女漫画の少年というのは、内面は少女だったわけです。で、自分の主体性(=非少女性)と、抑圧された少女性の発露の場だった。で、この「戦う女」というのは、まず女が主体性を得ている。そして抑圧された少年性の発露の場としても機能している。その抑圧された少年性とは、「攻撃性」のことです。
奇しくも元ネタになった文にも『それなのにすぐ社会は少年たちを「キレやすい」などと批判する。たまったもんじゃない』とありますが、女性に仮託することで、全体的に抑圧され気味な攻撃性が、違った方向で発露できるのかも。つまり、『男性的な暴力性』と言われるモノから攻撃性を切り離すことが出来る、ということ。私の中に漠然とした予感としてあった、逆ジェンダー@少年漫画という流れが古典少女漫画に行くような流れが、ここでも少し見えた気がします――つまり、内面は少女である少年から、内面は少年である少女になるということ。
ただ、戦う女の人、というのは多分アニメやゲームでは昔からあった気がして、漫画でも探せばわんさか出てきそうな気がするのですがね。もし少年性の抑圧の発露の場として『少女』という装置が機能するとしたら、攻撃性がそれに当たるかもしれんね、くらい。逃げ腰。