フェミニスティックな言動

そういえば私はフェミニストによく間違えられます。ジェンダーについて語ってりゃ女は誰でもフェミニスト論者さんたちに(笑)。萩尾望都フェミニストによく援用されていて、私はそれに相当の違和を覚える人間です。単純な話、なぜ〈少女〉を殺す人がフェミニストになるのかよく解らない。女性の生き方を限定するから?その割に萩尾望都は少女性への回帰願望を露にしてやまないが、その点はどう解説されるのでしょう。フェミニズム少女まんが、という大塚氏の括り方にも違和感を覚えます。
ところでもし、ここであえて逆ジェンダー云々に絡めてややフェミニスティックな物言いをするのなら、何故叶小夜子は男性にも人気があるのか、ということでしょう。誤解を恐れずに言うなら、「男性たちは、自分らの男性性が攻撃されているはずなのに、なぜ読むのかなぁ。」ということ。これについては、松谷さんに対して言っているわけではなくて(小夜子が好きとは一言も言っていないので)、トラウマに泥まず成長せよの相沢恵(=佐藤心)さんに言っているのですけれど。この文への違和感はid:lepantoh:20040106#p2でも語りました。
読んでない方のためにとても一方的な説明をすると(ネタバレ注意!)、小夜子というのは色香を使って男を殺しまくっていき、のっとられそうな家を守るわけです。もちろん伯母さん殺しとか最後のアレとか例外はありますが、その他の5人の殺された(&退職させられた)男たちっていうのは「いけないと思っても勃起してしまう悲しい(?)男の性」*1につけ込まれて殺されちゃう。といって問題はないと思います。
何故そんなところに注目したか、という本題をお話します(以下を読めば、全くフェミニスティックでないことがわかると思います)。この、「叶小夜子を誉める男」を見て真っ先に思い出すのは『日出処の天子』と『風と木の詩』の二作品なのです。これは、特に前者は主人公が女性を忌避する言動をモロに言っているんです。「私は女というものが好きではないのです」とか「(母に対して)汚らわしい!早くも田目王子と乳繰り合ったのか!」とか。*2で、そういうのを読んで「酷いなー厩戸。そこまで言わなくても」と思う人もいると思うんですが、私なんかは「いいぞ!もっと言ったれ!」と応援してしまっている(笑)、つまり作者が少年達に女性性を糾弾させ、それを一部の読者は少年の視点から女性性を一緒に糾弾しているという世にも不思議な構造があるわけです。だから、私としては別に、女性達が、自分達の女性性が攻撃されているのに読んでいても不思議ではないのですね。
ただし、この作者が男だった場合、それはそれでカチンと来るかもしれないなぁ、というのはあります。男性が書く美少年が、「僕は女なんて嫌いだ!汚らわしい…」とか言ったら…(あ、書いていて意外とイケるかも、むしろイイとか思ってしまった、逝こう)。やっぱり受け入れられない女性も出てくると思いますよ。作者が自分達も同時に貶めることを解っていてやっているのだな、というのが解るからこそ、そういうことを言われても「キーッ」ってならないわけで。
以上の点を踏まえて、男性達が男性性を否定されているのに読むのは何故か、ということがやはり気になるのです。ましてや吉田秋生はかなり少女漫画の枠から飛び出ているとはいえ女性なわけですから。女性と同じく自らの男性性の悲しい性に嫌気がさすことだってあるのでしょうか、それともそこまで考えていないのでしょうか。

*1:正に映画版碇シンジだ…

*2:そもそも『処天』『風木』そして『トーマの心臓』に出てくる同性愛者って、解る限り全員母親の愛情を失った子なんですよね。処天の厩戸王子もそうだし、風木のセルジュは結核で死亡、ジルベールは母に忌まれる。トーマでは、父に母を殺されたオスカー、祖母に疎まれるユーリ、そして劇中で母が死んだエーリク。