Erinnre dich! (make yourself remember!)

普通の日記を書こうと思い立ち、漫画の話をしないようにすれば、フツウノニッキになるに違いないと考えました。
しかし、今日は記すに値しないツイていない日だったのに、どういった風の吹き回しでしょうか。
まず今日は最初の授業に定時に行こうとしました。昨日わけあってお風呂に入れなかったので、本当に急いで支度をしたのです。ギリギリに電車で駆け込める時間に家を出たのですが、悪いことに駅に向かう途中にとある人に会ってしまいました。その人こそ、疲労に体を重くした私と昨日夜遅くまで語り合った人であり、私は彼女の話を聞かざるを得ませんでした。彼女はカウンセラーに会いに行っていたようで、昨日彼女が予想していたよりは、役に立つアドバイスを得られたようですが、彼女はそれを忠実に実行する気はなさそうでした。昨日、疲労で床に就いた私よりも更に短い睡眠と、計りがたい心労に彼女の顔の筋肉はズルズルと下に引っ張られ、まるで生気の感じられない容貌でした。しばらく話してしまったため、私は電車を逃し、風の強い海沿いの町のプラットホームで次の電車を10分、ベンチに座って待たねばなりませんでした。寒さに何も考えられなかったことに感謝したいほどの顔でした。
そして私はいつもどおり授業に遅刻すると、堂々と前にでて発表者のプリントを読み、当該のテキストに軽く目を通しました。しかしすぐに飽きてしまい、バッグの中から表紙が中に組み込まれたサリンジャーの『フラニーとゾーイ』を取り出すと、フラニーのいるレストランにもぐりこむと決めました。この物語は、フラニーの恋人レーンの描写から始まり、2ページ目に彼女――フラニーからの気の振れた手紙が早速登場することで、わたしを惹きつけていたのです。レーンは、常に気のないポーズをとりながら、本当は世界中にでも自分を吹聴してまわりたいような自信と顕示欲を隠し持つ、なんともつまらない男です。冒頭の、すばらしく脈絡というもののない、あの手紙を書くような彼女を苛立たせることしかしない男であることは間違いのないのですが、そのうちフラニーも、同じように薀蓄たれの、文学少女だと知って、なんだか悲しくなりました。フラニーの将来が全く見えないからです。しかし、私がこうやって日記を書いているのはこの物語を読んだ影響があるからかもしれません。
授業が終わると図書館に駆け込んで地下から『フラニーとゾーイ』の英語版を引き出してきました。ペンギンブックスといって、薄く、持ち運びやすいのはいいのですが、ペーパーバックの紙はパンのようにみみができ、その部分を触ると枯葉のように崩れてしまいそうです。それでも私は本を広げ、登場人物の口調を楽しみました。それに飽きると今度は『オペラ座の怪人』のドイツ語版をバッグの中から引きずり出して、歌詞を聴いて写しはじめたのですが、なにせ言葉を100語かそれ以下しか知らないので、どこで切れるのかも分からない始末です。しかし、昔テスト前に詰め込んだ知識をもう一度呼び起こすのには役立ちました。例えば私の日記やアンテナでは、Remember meというのがひとつのキーワードになっています。しかし、ドイツ語ではErinnrenは再帰代名詞で、Erinnre dich an mich (remember you of me)、というのが、私のことを思い出して、という言い方なのです。そのほか、ドイツ語ならではの副詞の用い方、他動詞と自動詞、分離動詞など懐かしい文法に出会い、その度に頭を悩ませる喜びに浸りました。
 
雨が降っているからには英会話学校に行かなくてはなりません。多くの人が欠席をするので、相対的に質の良い授業になることが多いのです。水曜日にいる妻帯者のイギリス人は、温厚で味のある教師です。彼のいいところは、文法的な間違いをすぐに言い直し、小声で教えてくれるところで、意外と教師というのは、恥ずかしがり屋の日本人相手に、そういうことをしてくれないものなのです。それが彼になると、温厚さとイギリス人特有の文法へのこだわりが相まって、実に自然に私をサポートしてくれるのです。
それなのに、なんということなのでしょう。私は今日、あんなに英語とドイツ語を図書館で詰め込んだからでしょうか、さっぱり話すことが出来ない日でした。よくあることなのですが― It's like surfing ―私の話せる調子はその日の体調や気分に大きく左右されます。トピックは正義と法についてですが、具体的な例を出すことも出来ずに終わってしまいました。
ひとつだけ今日特筆するべきすることに、スイス人が帰ってきていたことがありました。私は学校に居座るタイプではないので、彼がいつ帰ってきたのかはわかりません。スイス人についてはもう少しの言及が必要でしょう。いけ好かない人なのです、父親の職業は金持ちの代名詞のようなもので、3ヶ国語を完璧に話し、それ以上の数のヨーロッパ言語も嗜めたようです。恵まれた境遇にありながら、その能力を更なる小金を増やすために使う気は毛頭なく、極東の島国で英語を教えて足りるような欲のないところがますます憎いのですが、それすらも純粋培養の成功例のような人懐きの良さで無化してしまうような人です。私は再会した瞬間、もう戻ってこないで、お国――スイスであるかもしれないし、また別のところであるかも知れないけれど、とにかくゲルマン系がもっと目立たず生活出来るところ――に戻って仕事を見つけなさいと思っていたため、「見覚えのあるお顔ですね」と皮肉を言ったのですが、それすらも通じないような人で、教室で一人ぼうっとしているところに挨拶にきてくれたので、こちらから挨拶するべきだったと悔やみました。
 
さて、家に帰って部屋をうろついていると、ゴリッとした感触が足の裏から伝ってきました。私の床には蜘蛛の住む漫画の山しかないはずですから、咄嗟に振り返ってみると、買ったばかりのIPSAメタボライザーが急いで家を出て行く私に倒されたまま中身を半分床に開けているのを発見しました。それを見たときの悔しさといったら、とても日記には認められません。私はメタボライザーなしでは生きていけない体なので、仕方なく次に買う予定だった化粧水を節約し、失った3000円分を埋めることにしました。本当は、ノーエイジを買おうと思っていたのですが、このままですとArugeが関の山でしょう。こうして流れに流され、いつしか運命の化粧品と出逢うのは事実なのですが。
さぁ、ここまでタイプしてきて、ターコイズに染めた指が欠けてきたことに気付きました。事前に用意しておいた無印良品の除光液シートが役に立ってくれそうです。この油っぽいシートはその油が除光液成分の揮発を防いで、無臭でよく落ちると満足している品なのです。6枚入って100円なのですから、お値段は私が外人と話すために支払っている額の、およそ10分の1といったところでしょうか。