世界を認識する公式

スイス人のウェルカムバックパーティーらしきものがありました。「パーティー!?やっぱり英語が話せるひとは違う生活を生きているんだわぁ」などと思わないでください。奴らの言語感覚では和民で飲んでてもパーティーはパーティー。飲み会という言語がないのでそういう切り分けかたをするのです。しかも外人と日本で飲んだのは初めて。たまたまノリでそういう流れになっただけなのでした。
この間何の気もなしに「作品を切り分けるナイフに名前をつける」ということばを使ったのですが、自分のカテゴライズ・コンプレックスの分解に役立ちそうな比喩だと、自分で自分を誉めたい気持ちになりました。私は自分に名前をつけたり肩書きをつけるのが苦手で嫌いです。たとえば「はてなダイアラー」「ブロガー」みたいな自己認識を持っていません*1。その代わり、自分の周りには〈少女〉だ〈非少女〉だと名前をつけたがる。この、包括されたくないが分類したいという欲望は、私の自己中心性を映し出すようで、自分にとってのタブーでした。しかし昨日、たっぷり四時間外人と話したお陰か、その自分が行なう「名前付け」や「分類」を、便宜上切り分けということにしで、と全く違った世界の見方をする人がいるのだなぁとしみじみ感じました。それに加えて今年言語学を学び始めたのが手伝って、自分の自己中心性と「切り分け」行為の関係性をあたらしく考え直せたような気がします。
たとえば、冒頭のように英語で生活する在日外国人はパーティーと飲み会を切り分けませんし、さらに滞在時間が短くなればバーと居酒屋も切り分けません。
つまり、言語というのは理解に付随し、理解は言語によって規定されるわけで、わたしは便宜上、少女漫画に出てくる人物に名前をつけますが、それは世界を理解するための必然であり、かつ自己の認識を規定する意志でもあります。その二律背反から抜け出させてくれたのが、言語学と英語での会話でした。
 
上手く説明できませんが、そーゆー一つ高次の枠組みからものごとを見ることができた時、英語が話せるようになってよかったと思います。

*1:唯一自称するのが「漫画読み」