キャラクテールに頼ろうとしすぎ。 のだめカンタービレ#14

のだめカンタービレ(14) (KC KISS)

のだめカンタービレ(14) (KC KISS)

昨日の文章、本当はフルバ&NANA→のだめ→いくえみ&藤原、と行くつもりだったんだよね。で、朝起きて「ハッ!飛ばして書いてた」と気付いたんだけど(笑)、そして本屋に行ったらまたこれが発売になっていた、というわけで購入。今月46冊目。
あのね、確かに面白いんです。「空気読め」とか「死ね」とか笑いましたよ。笑いました。けれど、やっぱり決定的に欠けている何かがある。それは、前から書いているように、「音楽表現」、です。
元々音楽や芸術を描く時には、それに詩的なモノローグを絡めるというのが王道としてある、と私は思います。それは自分が古いタイプの漫画読みだから――というのは認めますが、それを恥じる理由も見つかりません。しかし、のだめカンタービレではそういう方法は脇役のポエムライターの所為でギャグにされてしまっている(しかも、たいして面白くない)。これによって、作者が音楽を語るための方法を自ら潰してしまっているのです。
「わたしには千秋がどういう演奏をしたのかわかるわ!」という方もいらっしゃるでしょう。たぶん、それは、言語化されたものから受け取ったのではない以上、他人に共通する普遍的(――おかしな言い方ですが)印象ではない。読者それぞれ受け取る印象が違ってもいいのではないかというジョージ・バランシン的考え方にはもちろん異論がありませんから、それで足りているというならいいのです。私は足りない。そしてなお悪いことに、「わたしは他の人にだって、千秋がどう演奏したのかわかると思うわ!」という人がいるとしましょう。いないかも知れません。しかし、これは別段起こりえないことではないのです。何故なら、詩的な解釈の代わりにこの漫画がその“音楽性”を媒介するものが存在しているからです。それは、キャラクター。
変態のだめは天才の音。中国人Ruiは超絶技巧のリスト。イケイケロシア人は色っぽいピアノ。時間にルーズなフランス人は情緒豊かだけどその気分気分の音。俺様千秋は、明るいジャンは、ナルシスト松田は……。ということな訳で、たしかに人種ならではの音楽の違いというのは確実に存在する。だから「人種で音を表現するのはやめてくれませんかねェ?」とは言わないさ(そんなことしていないと思うしね)。けども、けども、キャラクター*1で音楽を表現するのだって、同じように無理がないか?限界がないか?
一方で、曲の歴史や意味なんかをモノローグで挟むという伝統的手段――こちらの方がまだ切り捨てる余地があると思う――は継承しているのに、その解釈を決して示さないことによって、謎の分断を生み出している作品。その代わりになりそうなものは絵的表現であろうけども、この人が使うのは「このキャラならこういう演奏をするだろう!U know what I'm sayin'?」てなノリ。今回、Ruiの不調を示すものが雑誌のレビューだったのが、この漫画が音楽を語る言語を持たないいい例で、もっと劇的な示し方はなかったのかと思うわけだけれども、いつまでたってもこの漫画はライバル不在。「中古車ディーラーの乱」、面白いんですよ。面白いんだけど、ちょいとその乱、音楽でやってくれないかなァなんて、私は思うんです。
キャラクテールになるよりもノーブルになる方が難しいと思った一冊。
参考:のだめカンタービレ12巻 キャラクターと音楽をめぐるモノローグの違い

*1:てか、キャラ?