大塚英志Disの論理展開が大混乱している件

FALL STEPS!!

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いちおうコメントしときゅ。とにかく恐ろしく言葉が通らない状況になっているモヨンで、何でかって言うと言語を共有してないからだなこれ。
ちょっと待った、と思っているのは今だに〈内面〉説が変に意識されていることだなー。私は〈内面〉論のメチャクチャな発生にみる、大塚英志の論理的欠陥をもって〈内面〉というナイフを使うことの論理的な不可能さを書いてみたりしたので、これ以降議論において〈内面〉を語る際には何を以って〈内面〉とするのかをもう一度定義してもらわないと困っちゃったり。それに、少女漫画を切る千のナイフのうちなぜに〈内面〉なんて切れ味最悪切り口汚い面白みのないナイフを選ぶのかがわかんねーす。
ということでとりあえず

24年組的な「葛藤」や「内面」で切るならやおいを切るのはおかしい

とか

大塚が24年組的なものを重要視しているとして、そこに「女性性との葛藤」をみているとすると、24年組的な文脈では「「性的な身体の発見」とその自らの身体における女性性と向かい合うことでそれを語る「内面の発見」』(p78『教養としての<まんが・アニメ>』)」のように内面は女性性との葛藤から生じるというように言及されており、ではやはりやおいを切って捨てるのはおかしい、という簡単な理由です。

というid:nogaminさんがなぜそんなに〈内面〉に固執するのかはちょっとよくわからない。大塚のいう〈女性性との葛藤〉は、そもそも『教養としての〈まんが・アニメ〉』以外には関連付けた文章があまり見当たらず、大塚にとっては長年別々の課題として存在してきたし、私も最初のコメントで「有機的にリンクしていない」と指摘したはず。というのも、しつこいよーだが大塚の定義から言えば〈内面〉というのはモノローグの多重化技法を指すのであって、よって大塚は『真由子の日記』や『乙女ちっく』には内面を認めつつもかっこつきの〈内面〉を言説化できないというジレンマに陥っているんです。ところがここでは〈女性性〉の問題と一緒にすることで、なぜか〈内面〉まで復帰しているような印象を与えます。批判する言説が逆説的に論理を補強しています(という現象のこと、なんていうんでしたっけ)。
よってここでもやはり「〈内面〉で切るのなら、○○は入れるべきだ」という論理は、成立しないことはないが、意味を持たないといえます。わかりやすく言えば〈内面〉というのは刃渡り10センチのナイフが2センチくらいしかないようなもので、直径10センチの少女マンガバウムに切れ目を入れることはできても、切り分けること、通史化することは出来ない概念だからです(しかも銀製と偽っているが木製メッキ)。よって検証自体がなんていうか無駄に思えます。前にコメントしたとおり、あくまで私の意見は「〈内面〉で切ってこの表はないだろ……」ではなく「〈内面〉で切ること自体おかしいだろ……」なのですよ。
でも基本的な問題意識の原因である大塚の「なかったことにしたい性癖」には同意。


それでもって「言語」が共有されていないので混乱を招いている件について。
基本的に私は人間には限界があると思うのであんまり○○を切り捨てないで評すべき、ということは言いたくないと思ってます。もし誰かが何かを評さず放置していたとして、その人がそれを評すべき、と論じたいのなら、やっぱりその人の言語を使うしかないと思う。わかりにくいかな。
前のエントリでも言ったけど

大塚は〈乙女ちっく〉を誉めるとき、〈かわいい〉と〈少女であるわたし〉を基準に語っていたと思うのだが、一連の議論ではその点があまり触れられず、結果として『NANA』がどのような文脈・価値において「語られるべき」であるのかがいまいち分からなかった

というのが回収されず、むしろどんどん混乱を極めている。たとえば〈乙女ちっく〉が「フィクションであるのを知っていてそれを作り上げる」という評点で〈乙女ちっく〉を評価するのは大塚の仕事ではないことになる。〈乙女ちっく〉に言及しつつそれをやっていない人などごまんといる。ここで言うならばたとえばコメント欄で指摘があったように〈内面〉とか〈女性性との葛藤〉は〈乙女ちっく〉にもあった、ということが指摘できれば、それは大塚のミスだといえるでしょう。
そんでもってさらに事態を深刻にしているのが、大塚の批評言語とその他の人の批評言語がかなりごっちゃになっていること。
私の記憶が確かならば
〈抑圧〉ってのは上野―藤本さん的フェミニズムラインの概念なはずで大塚は使っていないし
〈承認欲求〉、これは橋本治藤本由香里でやっぱり大塚は使っていないので、この二つは「大塚が論じなくてはならない」ことにはならない。
というかそもそもこのあたりの議論は主語が非常に曖昧で、印象的には全部大塚のことを語っているように見えるけど違うのかもしれない。わからない。
もしかしたら細かい記述として大塚も触れているかも知れないけど、大塚の問題意識は一貫して〈身体性〉*1〈内面〉〈女性性との葛藤〉*2にあったはずです。そのうち〈女性性との葛藤〉というテーマは私が責任を持って引き受けるけど(だからといってWebで発表するって言ってるわけじゃないよーん)、これについては命題は正しいけども作品選択と読解がおかしいと思う。けどまあ、大塚さんは忙しそうなので私がやります。はい。


このような状況に痛烈なDisが。

私個人は該当記事が「大塚さんが自説に都合のいい漫画だけを取り上げてMY少女漫画史を作ってしまうことへの問題定義」かと思っていたのですけど、そうじゃなくて、「私の考えではこれもメジャーです」だったんですね。
ラブラブドキュンパックリコ - id:nogaminさんへのレス

ついに少女漫画でもプロレスが!と涙を流さずにはいられないのですが、まあこのように見えてしまったのは結局何をもってして「乙女ちっく」「NANA」「やおい作家」を評価すべきなのかが一貫性&共有性のある言語で語られていないことかと。でもこのような慧眼を見せるid:Maybe-naさん自身が、(まあ〈抑圧〉は大塚の概念じゃないんだけどもそれは議論の流れに沿ったとして)「「抑圧」をテーマにするならやおい少女の心理とか前世少女の心理とかと同じくらい重要だと思うんですけどね、ホラー少女の心理って」という唯一の大塚史観へのとっかかりを

「抑圧」なんて曖昧な表現は使うべきではなかったですね。すいません。

とアッサリ撤回し

それともメジャーな視点から売り上げ上位の雑誌からデータを抽出するのか、まぁ、色々ありますが、もし最後の手法をとるのならば、当然少女ホラーも取り上げなきゃダメだと思うのです。だって、限定的なランキングとはいえ『ほんとにあった怖い話』が実売ランキング8位なのですから。

と「これもメジャーです合戦」に自ら巻き込まれていく様は微妙によくわからない。まあこの議論自体がそう見えかねない問題を孕んでいたということでしょうが、なんでそれが語られるべきと思ったのかはさっぱり不明のままでした。ただし最新エントリの大塚の引用部には同意だし、大塚もそういう気持ちで書いていたんだろうというのは私ももとより主張するところです。それでもまあ間違いは間違いなんだけど。


さて思ったより長くなっちゃったな。そんで最後はやおい作家についてなんですがー。
確かにやおい作家を切り捨てる人がいたとしたら良くないとは思うんですが、実際よしながふみさんなんかはもう十分すぎるほどに評価されていますよね。そういう点で広い視野でみてそこが不足している、という風に言えるかは謎です。たとえば白泉社系は漫画読みに読まれてるから誤解されがちだけど全然評論されてないよ実は。
それで、まあ私はよしながさんと同じ雑誌に連載している同人誌出身の作家さんが一番好きなんですが、彼女はよしながさんより少し早く活動を始めていて、かなり重大な問題提起をしまくっていると個人的にはずーっと思ってきたし言ってきたのです。さて、なんで彼女は評価されないのでしょうか。彼女が仮に非常に24年組フェミニズムを読み込んできた作家だとしても彼女はインタビューされないんですね。人の目に触れない。よしながさんは作家として大好きですが、今の評論界隈での評価には微妙に首をかしげるところがあり(多人数の関係、というけれど結局は一対一だと思う私は)、しかも漫画界でのよしながふみ理解というのは、いわば一部の人が理解できなかったやおいやBLを、普遍的に理解しやすい言語と絵で展開したことで、その一部の人に対する「俺には理解!」の免罪符としての働きがすごーくあるような気がするので(よしながさんには失礼な話なんですがね)、なんというか鵜呑みにするのも怖いなあ、と常々思っているわけですが。
このように、「取り上げられていない」合戦は永遠にループしかねません。


包括的、という言葉があまり良くないみたいなので言い換えましょう。評論は限定的であることを免れ得ない宿命があります。なぜ漫画評論だけが、より多くの事象を扱うものとして志向されるのか、よくわかりませんが、大塚は大塚の言語で語ることをしました。評論家に出来るのはそこまででしょう。私はその言語を否定したり、もしくはそれを使って新しい見方を提出したりするでしょう。しかし、言語への検討なしで「語られるべき」「入れられるべき」とする態度はなんだか更なるカオスを生み出すだけな気がします。

*1:含む記号化&アトムの命題

*2:フロルの選択