グラミー賞ディクシー・チックスの圧勝は、本当に木村拓哉が言うように「政治的」ではないのか?

lepantoh2007-02-16

(три)
休日のテレビの前を数時間も珍しく陣取ってグラミー賞を見た。といっても私はそんなに音楽に詳しいわけじゃあないんですが。

日本でこれを見るとWOWOWという放送局を通してみるわけだが、今年のグラミー&アカデミーのメイン・パーソナリティは木村拓哉さんで、その脇をジョン・カビラさんと小林麻央さんが固める、という構図だった。人選に文句は言わないが、なんだか不思議だったのが、(当初はメアリー・J・ブライジがそのまま主要部門を獲得するかという勢いを見せていた所を逆転して)ディクシー・チックスがベストレコード賞までの主要部門を席巻した時にその3人が繰り返していた発言の共通性。
「いやー、本当に、一時はブッシュ批判を繰り返してどん底まで落ちたディクシー・チックス音楽が認められた、ということですね」
「カントリー界からは未だにバッシングを受けていますが、このようにグラミーで名誉を受けることで彼女たちの名誉も挽回されるでしょう」
というふうに、彼女たちの「音楽」が政治に打ち勝ったことを執拗に繰り返す。その癖して、木村拓哉ジョン・カビラも一度も彼女たちのアルバムが音楽的にどう評価され、新しいのかに全く触れない。
最後に最優秀レコードを獲った時、木村拓哉が控えていたグラッチェ村上さんに「見てる皆さんは忘れてると思うんですけど、グラッチェさんどうですか」と話を振ると、グラッチェ村上さんがディクシー・チックスのボイコットについて詳しく語った。「当時はラジオ局が彼女たちの曲をかけなくなったり、またDJがラジオ局の外にディクシー・チックスのCDを入れるためのゴミ箱を用意して、そこに捨ててくれなんてことも行われていました」そしてグラッチェさんはアルバムの内容についても「きちんと」触れた。「今回のアルバムは、カントリー歌手がロックを作るということではなく、ロック歌手がカントリーアルバムを作るような形で作られたということです」などなど……。
一方で、木村拓哉さんのまとめの言葉はこのようなものだった:「政治力に対する人間力の勝利って感じッスね!」
その言葉にジョン・カビラさんは「まさにその通りです!今年のグラミーを総括する言葉ですね」と反応していた。実際、細かい動作やリアクションばかりを取り上げて面白いことばかり言おうとしていた木村拓哉のほぼ唯一の名言じみたセリフがこれだった。なかなかに響きは良いと思う――でもなんだ、この違和感は?
ディクシー・チックスの受賞を語る時にはかならずブッシュ批判騒動の話をする癖に、そんなことはコレとは関係ない、アートとヒューマンはそれを凌駕するという、ポーズではないか、これは。ポーズを取っていないのは、グラッチェ村上だけだった、他の人のアートとヒューマンの礼賛は上辺だけだ。なんだ、それともWOWOWの出資元には福音派の巨大な支持母体がいたりするのか。


そしてそのようなポーズをよく人間は取る(たとえば小説がノンフィクションや伝記や雑誌や経済書なんかよりもはるかに優れたものだと見做したりね)。


わたしは、ディクシー・チックスの受賞は政治と切り離せないと考える。それは、この受賞が政治的である/に解釈されうる、という次元の話だけではない。要は、「政治マターでバッシングされながらカムバックしたカントリー女性」というこの枕詞がなんとも魅力的なのである。前にも言ったが、ドラマというのは最も普遍的なエンターテイメントで、その音楽よりもドラマを愛した人がいたって別段構わないと思う。が、政治的なことを言いづらい空気がスタジオ内に充満しすぎていて、わたしは「ディクシー・チックスがあの楽曲で、あの歌詞でグラミーを完勝したというのに、しょせん音楽の力なんてこんなものなんだな」と思ってしまったのだった。基本的に芸術は無力なのだ。
ちなみに、木村拓哉さんは終始微妙な雰囲気のスタジオでカッコイイことでもなく自慢話でもなくちょっとしたパフォーマンスの見所などをネタにして笑いを取ろうとして滑り続けており、個人的には好感度が鰻登りだった。