「やりがいのあるブラック職場」とのお付き合い――月130時間残業、300時間労働の何が私を苦しめたか――

lepantoh2008-08-31


こんばんは、岩瀬坪野です。このたび、晴れて超忙しい職場から離脱したので、更新再開します。はや5年目に突入した「無言の日記」をどうぞよろしく。


さて、この1年半、普通の人がなかなか体験できないようなかなりの長時間労働を体験したのでそれについて綴ろうとおもう!

長時間労働だからこそ体はおそろしく元気

まず、若さの甲斐あって長時間働いてもなんとかなった、というか風邪を引いたり疲れて動けないということはあまりなかった。というかむしろ土日は平日の夜分も過密なスケジュールをこなし人と会うようになった。しかしそれは80〜100時間残業の頃で130時間くらいの時は当然土日も出社するわけだけど、それでも月に2度ほど土曜日の朝少し遅れて出社→友人と用事をこなし、カフェで駄弁る→帰社して終電まで働く、というのをやったことがある。あれはたしかゴールデンウィークだな(5月の土日で休んだのは1日だけだった)。とにかく毎日動いているとだらけるのが逆に面倒なので、アクセル踏みっぱなし。
長時間労働しなくちゃならないというのは、それほど切羽詰った課題がどんどん押し寄せているということなので、会議では絶対に眠くならないしものすごく集中してる。朝も早くこないと印刷とか校正が間に合わない。だらけている暇はないのでトイレに行った時だけ少し休んだ。それと、朝かならずメイクはしていくようにしていた(服を買いに行く時間がないのと、髪型を整えている時間がないので趣味のメイクだけはお休みしないようにした)。
ただ離脱直前には海外出張で自律神経がぶっ壊れ(気温35〜38度だったんだもの)それ以降はちょっと辛かった。しかし離脱するまでそのことは隠し続けた。

■「やりがいのある仕事」だからこその辛さ

基本的に私はその仕事が嫌いじゃなかったので、深夜までおよぶ残業も苦しいんだけども、変に躁になって乗り切れてしまった。5日間、毎日終電にのれず2時か3時にタクシーで帰る週もあった。その翌週はあきらめて私費で2日分ホテルを取ったので5時間くらい眠れた。嬉しかった。
そこまでして私を動かしたのは「わたししか出来ない」という使命感と(今考えると間違いだが)、「頑張っていればいい事がある」という期待だった(今考えると大間違いだが)。自分で言うのもなんだが元来真面目で頑張り屋の性格らしく、完璧主義の気も少しあるようだった。それゆえ他人が出来ないことや他人がやらないことに猛烈に腹を立ててしまい、そのことが辛かった。

■今思うと精神的にはぶっ壊れていた

最初のうちは、わたしの辛さが相対的に決まるということが辛かった。
3〜4月ごろか、わたしは別の仕事(印刷物だのウェブだの)をわんさか抱えながら100ページくらいの英語の印刷物を作る羽目になってしまい、しかもそれが本来的には私のしごとではないが、担当者が英語が出来ない所為で私がやる羽目になったと考えていたため心の中はどす黒いもので一杯だった。わたしは毎日終電で土日も家やオフィスで校正作業をしており、英文と向き合っている時は異様なほど躁なのだが、担当者は毎日8時ごろには帰ってしまうため、また日本語と違い英文は一人しか校正要員がおらず孤独であったため、休日出勤時などはあまりの苦しさに泣いた。ご飯も喉を通らなかった。校了3日前に3校のデータがぶっとぶというアクシデントにも見舞われ、校了前3日の帰宅時間は3時、4時、5時だった。チーム内の精神的フォローはないに等しく、辞めることを真剣に考え出した。入社1年目でこれだけの仕事をしている人はいなかったし、自分には無理なので他の同期をひっぱってきてくれと思っていた(他の同期に英語が出来る人はいないので、これは嫌味。同時に変な矜持でもあった)。

5〜6月になるとチームの他メンバーも忙しくなり、みんなが終電近くまで残るようになると、なぜか自分が残業しているのも許せるようになり、相対的に精神的な重みは減った。メンバーが変わり精神的にもコミュニケーションが増加し楽になった。

しかしこの頃にはやはり他人が仕事ができないことでイラついていた。新人なので電話を取るのも仕事なのだが、いちおうは上司がへんな送り状をくっつけて印刷物を送った所為で、やれ同封物が入っていないとか、日付が違うとか、そんなことを電話をかけてきたお客さんから怒られるようになった。私は頭の中で「4月から一番忙しいのは私で、しかも上司ができなかった仕事まで引き受けているというのに、どうして私の電話が鳴り、上司のミスを被らなくてはいけないのか」ということを毎日のように考えていた。このような経緯でわたしのなかでは変な損得勘定が生まれた。

損得勘定というが実際には得はほとんど勘定しないので損勘定である。

唯一の希望はわたしが本番(定期的に訪れるイベントのようなものだと考えてください)にて得をする、つまり達成感を得るということだった。

しかし実際には達成感はないも同然であった。
本番では酒を飲むことが多いのだが、わたしはお酒が弱いし、しかも別の仕事をしていていつも遅れて参加するか、最後まで居残った(2時とか)ことで、ますます損をした意識が強まっていった。

■倒れたもの勝ち、辞めたもの勝ち

そんなこんなで私は「自分が損をしてばかりいる」と感じるようになっていたが、それでも「わたししか出来ない」「頑張っていればいい事がある」と思いながら真面目に勤務をしていた。

しかし、悪いめぐり合わせがあるもので、先輩が体調を崩して代わりに仕事をこなし、パーティーやなんやに出席した次の土日に頭痛によりプライベートをキャンセル→海外出張(土曜含む)→細菌性の胃腸炎(入社して以来はじめての発熱)だが既に2人体調不良で休んでおりその穴を埋めるため下痢止めと解熱剤を飲みながら終電まで勤務(誰にも言えず)→またも土日の予定キャンセルで寝込む、ということが3週間連続で続いた。自律神経もこの頃壊した。

この時点で「薬を飲みながら体を引きずって働いている人は、心の病で休んでいる同僚のカヴァーをしなくてはいけない」という事実が自分には重過ぎるものとなっていた。同僚は復帰後、何のお礼も言わなかった。もっと悪いのは、辞めるケース。就職先も見つけて辞められるケースは、数ヶ月前から自分は今後この仕事に関わらないと確信しているケースで、いざ引き継いでみると何もやっていない。引継ぎの言葉は「上司の指示に従って動けばいいので」に集約された。自分の中の真面目ちゃんは、またも腹を立てている。

■「みんながキリキリ働く社会」の夢想

ここまで書いて、改めて私は変わっていると思った。
多くの人には奴隷か家畜か馬鹿にしか見えないかもしれない。
しかし、本質的にわたしが今の仕事に「面白み」「やりがい」を見出し、ワーカホリック的に振舞ってしまっているため、私の理想とする環境は、好きなだけ働くことができ、かつ周りも同様の仕事量・質をこなしていることになってしまっている。

「早く帰る」ことが目的なのではない。しかし、「一人だけ遅くまで残る」のは大嫌い。
「お金を貰う」ことは目的からかけ離れている。しかし、「自分より高給の上司のフォロー」は私の仕事ではない。
「休日を楽しむ」ことが出来ない日がたまにはあっても良い。ただ、「他人のフォローの所為で予定キャンセル」の後味は最悪。

キリキリ働くのも、大してお金がもらえないのも、すごく忙しいのも、昔から問題にはしていなかった。
これは「人間関係」なのか?
どちらかというと会社の構造である気がする。
そしてわたしの精神構造であるのだろう。

もちろん会社には、自分を助けてくれるメンバーもいて、わたしはその手の人とは持ちつ持たれつの関係を気づいて、「チーム」としてやってきたつもりだ。その手の人は、上記には一切含まれていない。
ただ、実際そうであるかそうでないかはさておき、自分はいつも持ちつ持ちつである気がしてならなかった。日に日に、どんどん、そういう風にしか考えられなくなった。


それが、300時間働いて辛かったこと。


今はその環境から離れ、「わたししか出来ない」「頑張っていればいい事がある」が、ただの希望だったということを確認できた。「誰だってできるわけじゃないが、わたしの代わりはいる」「頑張ってようが頑張ってまいが関係ない」ことを学んだ。ある意味正しかったと思う。でも、受験生のような我武者羅なあの頃が、まだ思い出されては恋しい。