グレッグ・イーガン『万物理論』

万物理論 (創元SF文庫)

実はid:Atori:20041214:p1さんのレビューを読み、再読。


イーガンは短編の方が読みやすいと思う。しかし、イーガンがいつもここかしこで提訴する「アイデンティティ」「ジェンダー」の問題が興味深すぎて、長編もついつい読んでしまう。もっとも、長編のメインはイーガンのもう1つの持ち味「量子論」に攫われてしまうことが多く、「アイデンティティ」や「ジェンダー」の物語は惜しみなく投入される多くの枝葉・アイディア・ガジェット・世界観のどれか一つであることも珍しくないのだが……

本作で出てくる「ジェンダー」に関する議論は大まかに分けると2つ。


1つは性別について。強化男性、強化女性、微男性、微女性、転男性、転女性、汎性といった性別が出てくるが、とりわけ第3の性としてあつかわれるべき汎性は、中性風の外見を持ち、性器がどのようになっているのかは家族とパートナーくらいしか知る必要がないと考えるひとびとである。原文ではshe/heに加えve, また格変化してvis, verなど、わざわざ汎性のために代名詞が与えられており、日本語では「汎」「汎の」などと訳されている。


もう1つは、脳レベルでのジェンダー変更について。現在行われているトランスセクシュアル手術は、「心は男、体は女」という人は、体を手術して自分の認識に合った性別に変えること、と言い換えてよいと思う。しかし、『万物理論』の世界では、体の性別にあわせ脳の性別認識を変えることも、また同様に選択可能となっている。そのような手術選択者にとって、脳と体の性認識が一致していない状態は悪夢であり、また脳が体の性別に一致することによって、安堵感、解放感を得ることができるという。


「汎性」にも色々といるのであろうが、とりわけ新しいところは実際に生殖機能や性徴にあたるものをすべて除去するいわば「去勢人種」がその中に含まれることであろう。もちろん汎であっても性徴を消しただけで通常の生殖機能を保った人もいると考えられる。汎性風の見た目、名前といった外見は、汎たちが男女という2項的性を逸脱した存在を周囲に知らしめると同時、汎たちがどのような選択をしたのかをはぐらかす役割も持つ(わたしがフェミニストジェンダー論者という立場でなくクイアを自認するのも、まさにこの「はぐらかし」があるからである)。なお、作中では両性具有の提示はされていない。


そして脳レベルでの性同一性障害治療については、まずは考えてもみなかった自分には驚きであるが、身体を脳にあわせるよりも苦痛は少なくてすむのではないか?と単純に思ってしまった。なお、身体を手術した場合、生殖機能が得られるかどうかの記載はない。このあたりは、あくまで作品のバックグラウンドとして語られていることには、これほどの大ネタを前菜として(下味か?)出してしまうイーガンの才能にひれ伏すと同時、もっと突き詰めて議論したい気分もある。


しかしっ! この物語に限っては実は「アイデンティティ」の問題こそが本質なんだと思うぞ!
以下強烈にネタバレせざるを得ないので、不本意ながら畳みます。


とにかくこの大オチは量子論(AC)ではない。ラマント野である。ACに関するいくつかの派生議論のうちどれが正しかったかなぞ全くもって関係がない。つまりはラマント野による幻想――他人の形成――こそが宇宙の崩壊を防いだのである。バフチン風にいうと「意識というのは常に複数である。単一の意識というのは形容矛盾である」。

さて、本作品において最もエキサイティングな議論は「ラマント野」についてであろう。以下、筆者咀嚼のかいつまんだ説明。


他人を構成し理解するための脳「ラマント野」。その部野の損傷が大きいと自閉症者となる。「自発的自閉症者協会」はその「ラマント野」に小さな欠損がある人々で、ラマント野を切除する権利を求めている。なぜならラマント野がある限り、愛情を求めてしまうが、欠損しているがゆえに愛情をはぐくむことはできないからだ、という。


私の解釈では、この物語のオチは、主人公が愛してしまった汎性アキリのことが理解できない、つまりラマント野によって構成された「他人」と本当の「他人」の差分が万物理論では説明できなかった、そのためアレフがおこらなかった、ということである。別段主人公とアキリの間だけに起こったことでもないであろうが、要は「他人の考えていることは決してわからない」ということ。ただ、ラマント野を仮に切除していたら、他人を理解しようという動機と能力が失われていたため、アレフが訪れたかもしれない……という、非常に希望と皮肉に満ちた結論を思い描いているのだが、どうだろうか。


私は一刻も早くラマント野を切除したい派なので、このエンディングが最大限のハッピーエンドなのである。