『Glee』テレビは万能だ――劇場は何のためにある?

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2010年、私がもっともハマッたものは、ついに「アメリカのドラマ」となりそうだ。とはいえ、ハマッているのは何も私だけではない。ドラマのアルバムはビルボード1位になったし、エミー賞にも最多ノミネートされた。コンサートのチケットにはプレミアがついた。その正体は……アメリカのオハイオ州合唱部を舞台としたFOXドラマ『Glee』。

■ ハチャメチャ

そもそも、『Glee』はメチャメチャなドラマだ。『Glee』なのに、主人公のレイチェルはドラマの開始早々、顧問の教師が自分ではない人にソロを与えたといってグリー部を抜け、「キャバレー」を上演する演劇部に移籍して、数話戻らない。グリー部は、クラスがないことによる、アメリカ特有の部活をベースをしたヒエラルキーの文句なしの最下層にいる。メンバーは、自己中心的なエゴの塊であるレイチェル、ゲイのカート、太った黒人のメルセデス言語障害のアジア人ティナ、そして車椅子のアーティーアメリカのヒエラルキーに照らせば、ナード(オタク)と呼ばれる層だ。その5人に、学校のスターでもあるフィンが加わる。フィンは食物連鎖の頂点に君臨するフットボールの花形クォーターバックだ。しかし、これも加入の最初のきっかけは、顧問のウィル・シュースターがフィン欲しさに、彼のロッカーでマリファナを見つけたと脅したこと(!)。さらに、フィンの友人で、ナードたちを虐めてたグループのリーダー格であるパックがグリー部に入部する最初のきっかけは、彼がクーガー(年上の女)にハマり、アピールするためだった。主人公のレイチェルは第1シーズンだけで4人もの男と恋におちる。しかも相手は全員グリー部という狭い世界のなかでコロコロ対象が変わるのだ。コメディとはいえ、話がはちゃめちゃ過ぎて、最初の6話くらいまでは、「歌って踊っているだけ」という印象が拭えなかった。
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■ 人格のある音楽

そもそも私はミュージカルが好きであるし、その理由は明白だ。私は端的に言って物語中毒である。そして、単品で提出される音楽に比べ、文脈に埋め込まれた音楽は記憶に残りやすい。だから、私はクラシックそのものは大して聞かないのだが、バレエ音楽チャイコフスキーラヴェルプロコフィエフら)となると目の色を変えてさまざまな指揮者の版を集めているくらいである。


町山さんは、ラジオでGleeの話をした際、メルセデスのオーディションシーンについて言及していた。舞台となるオハイオ州は保守的な白人ばかりで、黒人はマイノリティ。町山さんにとって太った黒人のメルセデスがGlee部のオーディションで歌うのは「当然アネサ・フランクリンのRespectなんですよね!」となる。この“当然”といった感じは、日本に住むものには中々にして伝わり辛い。メルセデスがこの曲を歌うまでには一切セリフはなく、いきなりオーディションシーンで登場となるわけだから、町山さんは、彼女が「メチャクチャ歌がうまい」ことだけではなく、「当然アネサ・フランクリンのRespectなんですよね!」ことにも心動かされた、というのだ。音楽、歌唱だけでなく、彼女の見た目、人種、取り巻く環境、居住地域までもが、歌の評価に影響するのである。


一方で私は日本にいてそんなこと知っちゃいないわけだから、7話「Throwdown」で「お?」と思うまでは、それこそハイ・スクール・ミュージカルやハンナ・モンタナを眺めるような気持ちで流し見をしていた。7話はゲイのカートのカミングアウトに焦点が当てられ、父に自分を良く見せようとアメフトの試合に出て結果を収めるも、最終的に父親にカミングアウトするまでを描く。父親とカートの演技は特筆もので、このあたりから私はドラマを評価しはじめた。しかしこの回はビヨンセのSingle Ladiesが何度も使われているのだが、この段階ではカートはオーディション以来ソロも与えられず、自らの気持ちを歌に乗せるというミュージカルの常套手段を踏んでいない。ビヨンセはただのBGMである。


ところが、9話「Wheels」では、主人公レイチェルとのDiva Off(対決)が行われ、ウィキッドの名曲「Defying Gravity」での対決があり、カートが初めて1曲まるまる歌声を疲労する機会がある。ただし、カートは、女性の曲ゆえ高い音を出そうと音楽室で特訓していたのを男子生徒に見られ、父親のところに「お前の息子はファグ(オカマの侮蔑語)だ」と匿名の電話が入れられてしまう。カートがゲイであることを受け入れてくれた父親ではあったが、この手の中傷となれば話は別だった。カートは傷ついた父親を見て、対決においてわざと音をはずしてその曲を披露する機会から自らを遠ざけ、「父さんの息子であることのほうが、歌のソロを得るより大事だ」と言う。


第18話「Laryngitis」では、カートの父親と、フィンの母親が再婚することによるカートの心の揺れを描く。カートは父親の愛情が、ストレートの男の子であるフィンに向けられていることから、父親の理想の息子でない自分に苦しむカート。そこで、本当の自分を表す曲として、自分はゲイではなくヘテロセクシュアルなのでは?という思いから、いつものハイ・ファッションを捨ててダウンジャケットにジーンズ、キャップ、スニーカーで登場し、男らしくJohn Mellencamp「Pink Houses」を歌う。ところが、父親がフィンとアメフトを見に行くというと嫉妬が爆発し、いつもの過剰にオシャレなカート・ファッションに身を包み、ミュージカル“ジプシー”から「Rose’s Turn」を、“全てはカートのために!”と高らかに歌う。この曲でようやく、通常のミュージカルの文脈である、キャラクターの気持ちを代弁する曲がセットされるわけだ。



通常の映画やミュージカルのタイムスケール(2〜3時間)では、こんな所業は許されない。そこまで長い時間をかけて、キャラクターの背景、立ち位置、そして歌唱力を紹介していくことは不可能だ。だから舞台の上ではキャラクターはある程度戯画化されている。
ところがカートは、(実力的には十分歌う能力を持ちながら)まずはビヨンセをBGMとして登場し、次には「Defying Gravity」ではわざわざ音をはずして自由=本当の自分自身を表すことより父親の名誉を守ることを選ぶ。「Pink Houses」に至っては、父親の理想の息子を演じるためにヘテロセクシュアルの擬態しているだけだ。彼が“全てはカートのために!”と歌うまでの歌は、一切をもって彼そのもののを表してはいないという、矛盾に満ち満ちた助走。その助走を経て彼がついに「Roses’ Turn」を歌う際の破壊力といったら大変なものだ。


カート役のクリス・コーファーは、フィンよりも小さいサイズの役でありながら、エミー賞助演男優賞にノミネートされた。そもそも、クリスは車椅子のアーティー役のオーディションに来ていたが、監督が彼の存在にインスパイアされてわざわざカート役を新たに作ったという経緯がある。そういった裏話さえ、テレビは取り込んで曲への共感につなげてしまう。実際に、エイプリル役のクリスティン・チェノウスなんて舞台での活躍を知らなければただの皺だらけの若作りなオバサンだし、シェルビー役でイディナ・メンゼルが出てきたときの感動も薄れてしまう。そしてシーズン後半からレイチェル(リー・ミシェル)の相手役兼ライバルとして登場するジェシー・St・ジェームズ(ジョナサン・グロフ)の共演に心躍ることもないだろう。また、Gleeに使われる曲の文脈を抑えておくことも視聴の役に立つ。拡張された時間軸の中で、ありとあらゆる情報を味方につけて、ただの歌謡曲が物語に組み込まれていく様は、テレビでしか実現できない。


GLEE: THE MUSIC, VOL.1

■ マイノリティ・ビジネス?

町山さんが言及したとおり、オハイオ州という土地柄はGleeに大きな影響を与えている。パイロット版で創設されたばかりのグリー部が歌うジャーニーの「Don’t Stop Believing」は、グリーを代表する曲となった。この曲を選ぶ過程もオハイオという土地と深い関係がある。アメフト部QBのフィンは、ダサいグリー部を抜けることができ、アメフト部からプレゼントとして「トイレに閉じ込められた車椅子のアーティー」を送られるが、フィンはアーティーを助ける。イジメる側のアメフト部員は「この(車椅子の)負け犬を助けるなんて信じられない」と言うが、フィンは、

「わからないのか?全員負け犬なんだよ。この学校にいる全員、いや、この街にいる全員が、高校を出て、半分しか大学にいかないし、しかもオハイオ州を出て大学に行くやつなんて2人やそこらだ。俺は負け犬と呼ばれることは怖くない。実際そうだし、そのことを受け入れてるからな」。

そして、アメフト部とグリー部を兼任することに決めたフィンは、子供のころ初めて音楽と接した思い出のある「Don’t Stop Believing」を歌う。アメリカ中を行き先も持たずに旅をするホーボーを歌ったこの歌は、オハイオ州にがんじがらめになった子供たちの魂の叫びと呼応する。“ただの小さな町の女の子/孤独な世界に住んでいるけれど/真夜中の行き先もない列車に飛び乗る/ただの都会の男の子/生まれも育ちもサウス・デトロイト/真夜中の行き先もない列車に飛び乗る”……


物語は、黒人、ゲイのみならず、アーティーのような車椅子の障がい者にも焦点を当てる。9話目にあたる“Wheels”では、全員が車椅子に乗って「Proud Mary」をパフォームするのも見所だが、町山さんの言及にもあるダウン症の人々が出てくるのもこの話だ。また“Hairography”の回では、ろう学校のグリー部が登場し、手話でジョン・レノンの「Imagine」を披露し、心動かされたメルセデスが一緒に歌いだすシーンもある。


Gleeの唯一にして最大の悪役といえば、彼女自身が大人気となった、チアリーディング部コーチのスー・シルベスターだ。彼女は顧問ウィルの不手際からグリー部の共同コーチになるチャンスを得て、気に食わない顧問ウィルに復讐し、またチア部のメンバーを取り戻すためにグリー部をつぶそうと画策している。彼女が内部に入り込んでまずやったことは、マイノリティだけで選抜チームを作ること。黒人、ラテン系、アジア系、車椅子のメンバーを集め、「Hate on Me」を歌わせるのだ。この作戦は一時はグリー部内に亀裂をもたらしたが、結局メルセデスが「こんなマイノリティ・ビジネスは好きじゃないわ。たしかに私は強かな黒人女性かも知れない。でも私はもっとそれ以上の何かだわ。私は抜ける」といって計画はご破算となる。もちろん、ナードを集めたドラマ「Glee」も、本質的にはメルセデスが指摘するマイノリティ・ビジネス。そのことを指摘されても痛くないほど、徹底的に真摯であろうとするのがグリーの姿勢なのだ。メルセデスはその後16話「Home」でスーに言われてダイエットしようとするが、栄養失調で失神し、全校生徒の前でクリスティーナ・アギレラ「Beautiful」を歌い、そのままであることの美しさを強く訴えかけるシーンすらある。元来、ミュージカルは汚く醜い者のために、そして少数派の変わり者(変態といっても差し支えないであろう)のためにあった。テレビシリーズだからといって、その法則は破られていないのだ。

■ 私の耳は節穴 ――劇場は何のためにある?

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ところで、Gleeに関して私がもっともショックだったことは、主人公を演じるリー、そしてライバルのジョシュをN.Y.ですでに観劇していたことである。トニー賞で「Spring Awakening」のパフォーマンスを見て、チケットを入手し滞在中見に行った。しかしながら、実際にはあまりこのミュージカルは面白くなく、日本でも劇団四季が『春のめざめ』と題して上演したので見に行ったのだが、日記に書くまでもないほど、ちっとも面白くなかった。


ところが、Gleeに出演している彼らを見ると、ストーリーの機微やミュージカルとしての完成度はさておき、彼ら自身が卓越した歌唱力を持った一流のパフォーマーであることがわかる。彼らが歌う前から、私はジャーニーも、リアーナも、クリス・ブラウンとジョーダン・スパークスも、大好きでよく聞いていたのだが、アレンジの妙がほとんどない曲においても彼らが歌う版のほうが単純に良いと思うことすらままある。彼らがそれほどの表現者でありながら、わたしは劇場という、もっとも私のなかで基礎をなすべき場所において、彼らの真価を発見できなかったのである。


Glee: the Music-Journey to Regionals Ep
このことは私にとって難問であった。というのも、この事実を認めてしまうと、自分がN.Y.やロンドンに足を運んだ旅費も、年に何回も通う劇場へのチケット代も全て無駄になってしまう。私はGleeアメリカのiTunes経由で入手し、主にiPhoneで見ている。あんなに小さい画面が、劇場の価値を上回ってよいのだろうか?


このことについては、こねくり回した結果を、大まかには以下のとおり纏めてみたい。

  1. ミュージカルというストーリーを持った凝縮された音楽ショーと「Glee」は、似ているようで全く違った価値機軸を持っている。ひとつは何ヶ月もかけた物語であること。その中では、「歌わない/歌えない」ということすら成立してしまうという現実。
  2. もうひとつ、ミュージカルの曲は普通その場で初めて聞く。そして劇全体を一まとめの作品として聞く。一方で「Glee」に使われている曲はバラ売りされていたもののつなぎ合わせ。「Glee」は1分〜数ヶ月の時間軸を無限に横断するので、当然舞台に対する評価はそのまま適用できない。
  3. クリエイター=アーティストの構図は最早存在しない。You Tubeでカヴァー曲を披露していた少年がビルボードで1位を取る時代。創造することと演じることの価値に優劣はなく、パフォーマーは立派なアーティストである。


私はアメリカン・アイドルアンドリュー・ロイド・ウェバーをテーマにしたり、ポール・ポッツが「誰も寝てはならぬ」、スーザン・ボイルが「I dreamed a dream」を歌ったり、So You Think You Can Danceでデズモンド・リチャードソンが振り付けしたり、ということは、教育的意義から大いに支持するし、実際「Glee」は新旧のポップ、ロック、ミュージカルの名曲を新しい世代に紹介しているメディアとしても評価されている。“紹介”された人が劇場に行き着くかどうかという問題はさておき、エントリーメディアとしての成功に疑問の余地はない。問題はGleeそのものがどこまで深く潜れるかどうかだ。私の見込みでは、おそらくどんな劇場でも見ることが出来ない新しいミュージカルが出来上がるだろうが、それに伴ってわたしは転向宣言をしなくてはならないのかも知れない。