追悼・佐藤史生、驚異の反逆者、輝ける頭脳をもった詩人

好意的な四流批評家やコラムニストのうちで、ただの一人だって、シーモアの本当の姿を見てくれた者はいなかった。彼は詩人なんだ。本物のの詩人なんだ。たとえ一行も詩を書かないにしても、その気になれば、耳の裏の形一つででも、パッと言いたいことを伝えることのできる男なんだ。
<大工よ、屋根の梁を高く上げよ>


シーモアの詩集がバディの臀部に敷かれたまま長い歳月を過ごしたのに対し、大詩人たる佐藤史生に若いころから触れることができた私はいかに幸運であったか。しかも佐藤史生は詩を書いただけではなく、絵を描き、踊りと歌を描き、SFを書き、人間を描いてくれた。しかし、それでもやっぱり佐藤史生の最高点はその類稀なるセリフのセンス(黒田硫黄なみ!)にあるのであって、反逆者としての彼女を評価したがる似非評論家の私を黙らせるほどの、高い芸術性と示唆に富み、またユーモアとウィットがほとばしっているのだ。


夢みる惑星 (2) (小学館文庫)
私が好きな作品である、『夢見る惑星』は、最初わたしにとってはあまり面白い作品ではなかった。のちのち考えれば当然の話で、あの『ベルサイユのばら』だって、佐藤史生のもう一つの代表作『ワン・ゼロ』だって、その鏡映しである同時代作水樹和佳子イティハーサ』、もしくは反骨精神あふれ、反逆そのものが目的と豪語する佐藤史生『レギオン』だって、最初はやんごとなき身分に生まれ、権力の側についていた人が、反旗を翻して、民衆や悪魔の側につくから面白いわけであって、『夢見る惑星』みたく、王様の私生児が、予期される地殻変動から人びとを救うため、「大神官=権力の権化」になって人を導く話なんて、長引く反抗期に絡めとられた当時の私には、地味で体制っぽく映るだけで全く響かなかった。しかし、イリスのような自己犠牲的キャラクターを描くなるしまゆりに出会ってから、むしろイリスは何よりも運命に逆らおうとした信念の人であったことに、改めて気づいたのである。そして、イリスの懸命な決断は、社会人になって、さまざまな規律に縛られるようになった私に、勇気を与えることともなった。


佐藤史生ジェンダーにおいても様々な功績を残した。ただ、それ以上の問題は、永遠の難問を遺していってしまったことだろう。ここでは、藤本由香里が「私の居場所はどこにあるの?」で触れている『オフィーリア探し』について取り上げてみよう。

精霊王―徳永メイ原案作品集 (小学館文庫)

レズビアンバーに勤める若い女が続けて二人殺され、犯人をたぐっていくと、颯爽とした背の高い女にばけた男だったという筋書きである。しかし、女としては颯爽とした美しい肉体が、男としてはなぜこれほどまでに無残な、できそこないに転ずるのか――「その前に立って悄然と声もなく、ただおのれを恥じるこの感覚は何なのだろう?」ここにはまた、別の問題が口をあけている。[藤本、1998 pp.167-168]


この「颯爽とした背の高い女にばけた男」である肖(あやか)は殺人犯であったのだが、それを暴き立てる礼というFtMのレズビアンバー店長にむかって肖が吐く台詞がこれだ。


「あんたのこと好きだったわよ ある意味じゃファーンより あんたのほうをずっとかわいいと思っていたわ でも…わたしがほしいのは 小さくて愛らしいたおやかなお姫様なんだ わたしを男として 強い男として愛し 慕ってくれる そんな女なんだ 一点の汚れもない 美しい… 天使のような……」[佐藤、1989 pp.212-213]


肖は男性でありながら、男性そのものとしては美しくないために女性を選択する、「男性性に挫折し女性化を余儀なくされている存在」として描かれている。これは萩尾望都『マージナル』のメイヤード似ている。そしてそれゆえに自分の男性性を保障する「少女」を求めている。メイヤードはここで女性を突き放しているのだが……。それはさておき、これは言うまでもなく、乙女ちっく少女漫画が、男の子に「そのままの君が好き」といってもらおうとしたこととも、また、24年組が、少年に仮託して、主体性を花開かせようとしていたこととも、真逆である。そして、真逆であるからこそ説得力をもって一つの真理を暴き出す。24年組は、一貫して、間違った人々、反逆者、醜い人々を取り扱おうとし、そして成功を収めてきたが、如何せん彼女たちの筆が描き出すのは美男美女ばかりであった。『オフィーリア探し』は、この作品以前の少女漫画が、結局何も達成できていないのではないか、という強烈な問いかけだった。


肖の「しかし みかけはできそこないでも わたしはまったく普通の正常な男だったんだ!」という叫びに、事件を調査していた探偵である主人公のモノローグはこのように続く。

そうでなくて本当に倒錯者だったらよかったのだ[佐藤、1989 pp.220]

先に言ってしまえば、この言葉は90、00年代を超え、10年代に入った今でも解決を見ていない。「倒錯者」だったとしても、24年組ほどの聡明さをもってすれば、二律背反の中で引き裂かれるような思いをしなくてはならない(なお、神坂智子『T・E・ロレンス』は、倒錯していることの苦悩を扱った名作である。またここでも、上記問題は全く解決されていない)。「本当に」倒錯するためには、せっかく男性の形を変えて得た、自由に表現する権利、主体性を封印するしかない。


主人公をして「本当に倒錯者だったらよかった」とまで言わしめるものは、「できそこない」の「みかけ」である。


ナルシシズム」と「特権性」が絢爛と花開く場でもあった少年主人公の作品において、「みかけ」の問題は常に棚上げされてきた。70年代の少年について、乙女ちっくという「ブサイクを自称する可愛さ」というカマトトと比較して、より聡明さを、そしてより正直さを要求された2「少年主人公漫画」の中で、存在できるのは、真の自分の姿としての美少年であり、また真の自己否定としての先天的な異端しかない。ワタシは、バカでドジでおっちょこちょいなわけではなかった。ワタシは美しく、ワタシが阻害されるのは、バンパネラだから、ラテン系だから、銀の髪で赤い目だから、黒い肌だから、云々……。


それですら、カマトトよりはずっと賢明だったのに、佐藤史生は、その聡明さと正直さを、読者である私たち、そして作者である彼女自身を傷つけかねないところまで引きずり下ろしたのだ。つまり、「真の自分」との最大の齟齬が、女である自分、そして同性愛者にもなれず、異性装者にもなれない、醜い自分であることを発見したのである。80年代後半、少女漫画はついに、ロレンスやメイヤードや肖といった「トランスジェンダーの醜さ」への可能性にたどり着く。一方で、それと同時に評論による既に少女漫画の「トランスジェンダー」への価値の付与が始まっていた。上野、大塚らがこぞってギムナジウムを語り始めたのは丁度89年である。そこから、表現と評論のどうしようもないまでの乖離が生まれていった。佐藤史生の作品は、フェミニズムにとらわれた評論を許してきた少女漫画に鳴り続ける警鐘であり、揺るぎのない楔である。それは私たちに重大な事実を思い起こさせる。少女漫画は、今でも失敗し続けている――と。


「少年主人公漫画」は作者・読者たる「私の性」が介在しないメディアだった。それは、「私の性」の問題を棚上げしてきたことと同義である。そしてそのファンタジーにおける性越境は常に、「まったく普通の正常」でありたかった私の裏返しである。「倒錯者」にもなれず、「まったく普通の正常」でもない、あいまいな性の醜さ――。もちろん、その後、少女漫画は、そこを乗り越えるために大きな冒険にでることとなった。 佐藤史生はその最初の一人であり、最後の一人であり続けるだろう。