なぜコムギは盲目なのか

好きなことについて書こう、と思う。

HUNTER X HUNTER27 (ジャンプコミックス)


日記を再開させると下手に宣言してから数週間、わたしは多くの機会を得ながら自分に言い訳を続け、けっきょくただの一文字だって書かなかった。私は心の中ではいっぱしの評論家のつもりだったが、3年の歳月が私を平凡で怠惰な社会人に変えていたようだ。ものを読む頻度の減少以上に、評論に対する情熱と義務感はひたすらに薄れていき、見えなくなってしまった。
私が漫画を必要としたのは、幼いころから“自らが正しいこと”を文字通り何よりも大事にする母の元で、つねに間違った立場を強制的に選択させ続けられる環境におかれ、間違った自分を肯定する理屈が必要だったためだ。たとえば、コップの牛乳を母がこぼしても、遠くにいた私が怒られることがあった。私が悪いんです、という事実を、自らの血肉として生きてきた。そして出会ったのが冨樫義弘と萩尾望都だったのであり、私にとって漫画(とミュージカル)は、マイノリティを讃美し、清きを罰し悪しきを尊ぶ、かけがえのない芸術となった。


冨樫義博は、異生物の側に立つ癖がある。
あちら側から来た主人公は、キューピッドや不良やドグラ星の王子としてあらわれた。ゴンはフリークス(怪物)の名前を持って生まれた人間である。
冨樫義博は、同じ設定を何度も違う作品の中で繰り返す。
というわけで、マクバク族的なキメラアントの助けを借りて、魔界編で持ち出したけど作者が消化しないまま雷禅が墓場に持って行ってしまった食人のテーゼを、再びハンター×ハンターの世界で解決しようと目指すこととなった。
しかし、冨樫の中では最初から答えは出ていたのである。「人間より強い種が出現すれば、人間は家畜となる」こと、「人間は蟲よりも汚くて残酷である」ことを示すところからスタートしてしまった本編は、『第9地区』をオチから(ないし、元ネタたる南アフリカアパルトヘイトドキュメンタリーから)見るような危険な作業であり、必然として描写はチープになっていった。ウェルフィンのあっさりとした転向、対話をしないネテロ。だが、蟲の支配から抜け出すパームの格好よすぎる描写などは、女性の格闘キャラを扱うのが上手い冨樫らしさが出ている。


同時に、冨樫はキメラアント編でナレーションを使用せざるを得なくなった。
そうしないと、幾重にも折り重なる心境と戦況を表現することができなくなったのだ。漫画家が作中でこのような転換をすることは、全くないわけではないが(最近の『嘘喰い』などは唐突に剥製の鷲がモノローグを入れだすなどぶっ飛んでいる)、ある意味で、冨樫が紙面で操りきれるキャパシティを突破したところに、我々はいるのである。そして、このわかりやすさは、同様に安っぽいものとして読者には受け取られた。


しかし、本当にそれは安っぽいものなのであろうか。
私は認識に対して、いつも強い疑いを持っている。
たとえば、映画など2〜3回みないと訳がわからないものだと了承して見ている。


私が「認識劇」と呼ぶいくつかの作品群がある。
もちろん、萩尾望都はその代表的な作家である。「認識劇」のはしりはあの怪作『トーマの心臓』でユーリがトーマに対して見つけた解釈であり、それによってトーマの行動は180°違ったものとして見えるようになった。その妙は奇作『訪問者』でも受け継がれ、そこではオスカーに愛する父が語った神様の話が、最後には180°違う解釈にて提示され、読者を震撼させる。父は視力を失いかけていた。そのほか、枚挙に暇はないが、私の愛する『マージナル』のメイヤードも視力が弱い遺伝性の因子を抱えており、彼にとって、死にかけた不毛の惑星は、生きるために女性化する自分の鏡うつしであることが暴露されたのである。
もっとわかりやすいのは京極夏彦である。ミステリ作家なのに、現場に死体を置き、「ないと思い込んでいたから/見たくなかったから、その死体は見えなかった」というトリックで1作目を書き上げた作家は、その後も何度も脳味噌が創り出す不可思議な認識を妖しき怪として取り上げてきた。


それに比べて、少年ジャンプはひたすらにまやかしの世界であった。それは「認識=わかること」とは正反対の、「わからないこと」という眼帯である。ルフィの唐突な言動の裏にあるものは読者の想像に任され、サスケの兄イタチが使う瞳術のすごさは決して読者には伝わらず、藍染がいつ卍解したのかを解らないまま隊長たちが散っていった。そこでは、認識の転換トリックはただのハッタリであり、ギミックでしかなかった。
一方で、キメラアントが登場してから、武力も、知力も、戦場も、モラルの戦いも、ある種の限界を突破してしまったハンター×ハンターでは、目の見えない、「わからない」コムギを唯一の非力な人間として置くことで、かろうじて読者の「認識=わかること」を支えることに成功したのであった。つまり、彼女にとっては自分を庇護してくれるのは蟻、自分を人質にとるのが人間であり、そこに180°の転換がある。コムギは、冨樫が最初からネタばらししてしまった蟻のモラルを支持する支柱であり、彼女を救済できない人間軍には蟻ほどの価値もないのである。


ひとつだけいえるのは、この物語は着地地点も相当に不自然なものとなるだろう、ということ。
それでも私は冨樫義博を読み続けるだろう。好きだからね。