大学生に送るサリンジャー精読その1.『フラニー』と『ゾーイー』を批評する
そうか、この日記には[批評]も[評論]もタグとして存在しないんだな。うーん、学生時代の私って謙虚(HxH風に)。さて、この日記も死に掛けていたけれど、最近英語の副産物で少しばかり評論をしているので、ここに書いてみようと思う。たぶん、多くの学生が私より熱心で頭がいいと思うけれど、それでも私は、学生時代からそう望んでいたとおり、この日記が他の学生のインスピレーションの元になってくれればいいと願うよ。学生諸君、君がフラニーにボコボコにされながらもなおアイビーリーグの英文学生を気取るというのなら、私はあなたを全力で応援したい。しかしまあ、「英文学生」の意味するところの日米間の差異には眩暈がしますな、フラニーに挑みかかる程のあなたならわかってくれるだろう、この意味が? スノッブを気取ったくだらないリトマス試験紙的な人間になるのはさらさら御免だが、授業中にCanCamを広げるハイトーンな声を出した彼女たちと同じ所まで堕ちることは到底できない、板ばさみの人生じゃあないか。中世英語なんて読めもしないのにシェイクスピアで卒論を書いて社会に定住する人なんてゴマンといる――それも訳書ではなく映画だけを見て。そんなに要領良く生きられたら素敵だが、それでも何かを捜し求めて、自らがグラース家の人々のように才能にあふれるわけではなく、情熱が結局実を結ばないとわかる程には聡い、惨めなノン・ネイティブにとって、『フラニーとゾーイ』は、奇書であり鬼門であろうな。それを恐れてか、申し訳ないけど、私は人文の卒で、英文学科はいくつかの授業しか聴講しなかったんだ。しかしまあ、サリンジャーは大学の中でも唯一真面目に勉強した作家であった。アメリカとの接点なんて、彼ぐらいのものだったな、今考えれば。
さて、今回の底本はこちらの本。なかなかどうして良い本だよ、高いけど。図書館で探してみよう。
A Reader's Guide to J. D. Salinger
- 作者: Eberhard Alsen
- 出版社/メーカー: Greenwood Pub Group
- 発売日: 2002/11/30
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さて本題。『フラニー』は読んでそのまま、レーンとかいういけ好かない英文学生が鼻につくことを散々言ってきた挙句、精神的に不安定になって最後にはぶっ倒れてしまうほどのフラニーにそんなことよりとっととセックスしようと持ちかける話だ。フラニーが持つ『巡礼の道』という本の内容に関しても、『ゾーイー』の最後まで解決しないので、ここは思い切って『ゾーイー』に焦点を絞りたいと思う。ちなみに、わたしはおそらくこれを「ズーイー」ないし「ズーイ」と発音するであろうけれど、まあ、この文体からわかるとおり、とにかく私は野崎リスペクトなのだ。
さて、『ゾーイー』については、底本の結論部にこのようにある;
While a lot has been written about "Zooey", most cf this commentary has been imbedded in articles or book chapters about all of Salinger's work about Glass Family series. In short, there has been very few studies of "Zooey" as a self-contained work of art and even fewer studies that consider the novella's unusual structure and narrative technique. As far as themes are concerned, there have been too few explorations of what "Zooey" says about the nature of art and the role of the artist in society, even fewer studies of the family dynamics in the novella, and none of the mother-daughter relationship in "Zooey".
つまり、最初にあればあるほど、レーン・クーテルの試験管的無害な論文に近づくことができ、最後にあるものはフリーク気分を味わえる、というわけ。最後から行こう。フラニーと母の珍しい関係性については、ナイン・ストーリーズのブーブーを引いたり、またサリンジャー作品における父親の不在をモチーフに、シーモアの死と絡めて語ってみるのも面白いかもしれない。お尻から二番目に書いてあるのは家族のダイナミズムだが、これは非常に重要である。注目すべき点は3つ。1つは小説の構成で、これは1対1の会話が3パターン繰り返されるのみの大変珍しい構成となっている。しかも、それぞれの場において、話し手は、聞き手が止めてくれと懇願することを行い続ける、大変にフラストレーションの溜まる展開となっていることも珍しい。もう1つは彼らの雄弁さである。雄弁さこそが彼らを語るキーであり、それはおよそ彼らの嫌世的態度と馴染むものではない。最後は彼らのコミュニケーションの方法である。シャワーカーテン越し、鏡越し、そして目を合わせない対面式、最後は他人の名を騙った電話。これらが一体となって、このfamily dynamicsを生み出していると考えてよいだろう。続くのは芸術家の社会における位置とのことだが、これは最後にゾーイーがフラニーに「神の女優になれ」との助言を行ったこと、そして彼らが2人とも演技者であることから着想を得ており、実際そのような評論が成されていないこともない、多くはないが。サリンジャーが映画に対して抱く嫌悪感や、バディの小説家としてのあり方などと比較すると面白いだろう。ナレーションおよび普通ではない構成については、バディと3者視点の2つが入り混じることからきている。これはバディがシーモアについて語る「大工よ、梁を高く上げよ」と共に研究することが必須となろう。もちろん序文に書いてあるとおり、グラース家との比較によって『ゾーイー』の本当の魅力が薄れてしまうと考えているのならば、むしろその他の作品を切り取ってしまうのも一つの勇気だ。わたしもそれに挑戦したのだが、なかなかにして難しかった。個人的には、上記の雄弁さ、そしてフラストレーション、コミュニケーションに加え、ナルシシズムとフリーク性での綱引きというのが、『ゾーイー』の魅力だと思うのだが、その点では『ライ麦畑でつかまえて』を思い起こさせるところがあり、結局は2作品の比較となってしまったという、私自身苦い過去を持つものであるのだが……。
さて、『ゾーイー』においてもっとも問題とされるのは、最後の「太っちょのオバサマ(The Fat Lady)」の解釈であるが、これについては、別途また筆を改めたいとの思いにて、本日はここまでにて失礼したく思うのだ。
ところで、折角なので心機一転、日記のサブタイトルも「五月の庭」から「It's Nothing, Don't Mention That」に改めた。この2つは「そんなこと何でもないさ、わたしには勿体無いお言葉さ」という、つまりは「どういたしまして」を表すものなのだけれど、どうも最近日本語で間違えて使ってしまう。「なんでもないです、いわないで」という意味が、日英米間で非常にかけ離れているのが、少し面白かったのでタイトルにしてみた。相変わらず大して更新はできませんので、よろしければついったーにどうぞ。(岩瀬)