東京都青少年健全育成条例改正案に対する私のコメント

私のコメントなど大して重要ではないと思いますし、そもそも漫画を評論するという、大事なことからもう何年も遠ざかってしまった私が無責任に、今更ぶって偉そうな事を言うつもりはありません。しかし、都知事の同性愛へのヘイト・スピーチをきっかけに、あらためてこの問題が自分にとって必要なものと思われるようになりましたので、簡潔にコメントしたいと思います。
まず、申し訳ありませんが、今回私は規制に賛成も反対も出来ません。
そこには、正直に言えば『風と木の詩』や『残酷な神が支配する』がその条例改正案にはひっかからないであろう、という、たかを括った部分もあります。とはいえ、今回は、基本的には男性向けのポルノ漫画に関する意見ばかりであり、女性向け漫画は『風木』などが避雷針的に言及される程度ですので、少女漫画とジェンダーの関係を研究し続けたものとして、2点だけ、反対に回らない理由を示しておきます。
ひとつは、規制がなくても少女漫画はちっとも良くなんてならなかった、ということです。少女漫画、といえば、誰もが24年組を(それこそ今回の『風木』のように)権威ぶって引用します(私だってそうです)。私が研究するのは主に80年代の少女漫画ですが、00年代となると読む雑誌は一気に狭まります。「ウィングス」「スピカ」よくて「別冊花とゆめ」です。よく、少女漫画のエロがぶっ飛んでるという画像が出回りますが、10年前、毎号「少女コミック」を読んでいた体験はそれに輪をかけて酷いものでした。巻末にはいつも、「1回目・出会って即セックス→2回目・ラブラブだが浮気を誤解して嫉妬で破局→3回目・仲直りしてセックスし最終回」という漫画が載っていました。そしてその枠がどんどん増えていき、連載の調子と付録がセックスまみれになりました。私は15歳(高校1年生)で(さらにそれをたまに読んでいた妹たちは当然もっと若い)、『ふしぎ遊戯』で有名な渡瀬悠宇のファンだった子から借りていました。結局、その子はそれが嫌で購読をやめました。
別にセックスの話が嫌だったわけではありません。平行して『風と木の詩』読んでいたのもその頃だし、それどころか色々な漫画を読んでいて、『のぞき屋』とか青年漫画まで読んでました(あんま好きじゃないですが)。結局、中身のないセックスの話が嫌だったんです。面白い漫画はすっかりなくなってしまいました。その変化は本当に早く、半年くらいで起こりました。表紙には花とゆめと交互で「少女No.1隔週誌」の文字が躍り、その作戦が売り上げに結びついていたから、そんな暴走が起こったのだと思います。
だから、規制なんてする前から、とっくのとうに、一部の少女漫画誌ではある意味、暴走が終わって、半死の状態なわけです。私はそれがいやで読むのをやめたわけですから、法が変わればもっとべつの魅力を押し出してくる可能性があるとすら思えるわけです(もう、半分ヤケです。いくらでも反論してください)。今は「花とゆめ」ですらSFどころかファンタジーが連載できず、うそ臭い学園モノがはびこる時代になってしまったんですから。
そしてもう1点は、漫画表現、とくにやおい的表現による同性愛者への差別的表現です。ここでは男性漫画での女性への陵辱行為について怒るべきなのかもしれませんが、読んでないので。やおい的表現による差別については水間碧の仕事に詳しく、おおまかにはその流れと一緒ですが、twitterでも臆面もなく、「ホモ」と発言するやおい好きの、なんと多いことか。今回、石原都知事が皮肉にも、表現規制と直接の関係がない同性愛者への言及を行なったことで、この皮肉な環境が私の中で急に浮かび上がってきたのでした。石原発言のエッセンス、つまり差別感情が表現規制に向かうガソリンであった、という点は批判の対象にしかならないでしょう。さらにその差別感情が、自分の中で重大な価値を持つ同性愛の問題に向けられたとなればなおさらですが、一方でこの矛盾が、反表現規制をしている人に対する、「こんな時だけ声を大きくして」という思いをますます大きくしたのも事実です。
結局、規制なんてなくてもダメになるものはなるのです(J-POPと同じようなものです。流石に今のメインストリームが中身のあるものだとは思わないでしょう?同じ服をきて皆で振付を踊りながら歌うのが?才能を隠すあのやり方が?)。
同時に、規制があっても生きるものは生きるのだと思います。というわけで、個人的は賛成も反対もしないし、できません。