人間は考える葦である。我思う故に我在り。

いきなり話は変わるが、私はどうも他人を見下しているように取られるらしい。自分としては見下しているつもりはないが、他人にシンパシーを抱くことは少なく、大抵自分とは区別して考える。EQが低いというわけではない。映画などでは泣く方だ。だがそれとはまた別に、他人の中にズカズカ入っていくこと自体が怖いし、嫌いだ。逆もまたしかり。
そういった「私はあんたと違うのよオーラ」をどこで身につけたか、という考察に対する、チヨヨの「中学のテスト」という答えは非常に興味深い。だが、私はそれ以前に人と「違う」、と、マイノリティの烙印を押されたのを覚えている。それは幼稚園の時のことである。それから私は転校を繰り返し、一年すれば去っていくという生活を繰り返した。それもまた良いことではあるまい。
だが、今となっては、このマイノリティの烙印を自ら押したのか、誰かに押し付けられたのかわからない。というのも、確かに私は他の人とやや違っていると自己を認識している。しかしそれは、「あなた変わっているね」と否応なく浴びせかけられた所為か、それとも違っているという認識が、他人に「変わっている」と言わせているのかよく分からないのである。
私にとってそういったことを描いた漫画が「ぼくの地球を守って」だった。シ=オンという男の子は、地球で言う月、テスの出身で、物凄い超能力を持っていた。テスは戦争をしていたので、幼くして仕方なく超能力で人を殺す。彼は肌の色の黒さや、戦災孤児であることから、仮の母星シアに引き取られてからもイジメにあう。そうして高校に進んでからは、「親友」に影でこうささやかれる。「あいつ、自分は他人と違うと思っていていけないよな。」確かにシ=オンの行動は親友殿を意識しまくりの構ってチャン満開であるのだが、彼が自分と他人を分けて考えるようになったのはおそらく彼自身のせいではあるまい。人はまず「違う」という烙印を押されて、初めて異物としての自分を知る。そしてその後、自分を異物として捉え始めるのではないか?