昇華される「異物」としてのわたし

しかし、異物であることは人にとって辛いことである。マージナルな存在になってしまえば、社会の落伍者と同然である。だからこそ、異端化されたものたちは自らの特権化を計る。シ=オンと同じく、私も勉強に逃げた感がある。社会的に最も認知されやすい行動の一つだ。
異端というのは常に自身の中に二律背反したものを抱いている。萩尾望都が描く異端児もつねにそうである。まず能力。不死で美しい「ポーの一族」のバンパネラエドガーは、同時に老いることが出来ず、死ねば残らず灰=無になるという二面性を抱えている。さらに、ポーの一族である事にプライドを持っていると同時に、そのことを憂いている。だから彼は、異端児から元の世界に戻ろうとする行動を意識の水面下で行い続ける――彼らの食物、薔薇を折るのだ。
私という異端はもっと複雑である。私は「普通」に、non-noを読み、サックプラを持ち、コンバースを履いている女の子たちをみると、そうならなくてよかったという思いと同時に、ああなりたかったという思いがわいて来る。いつの日かこの鎖骨の下の赤い烙印を返上して晴れやかな顔で社会に飛び込みたいと夢みるのだ。しかし、私は同時に、彼女たちとは違った生を生きてみたいという欲望も抱いている。その汚らわしい向上心だけが異端児をわずかな光明へ導く蜘蛛の糸なのである。
私は日々そんなことを一時間の通学の時に考えているのだが、その考えていることすらあっさりと否定されてしまう。そしてその否定すらも誰かが既に行ったことであり、誰かが既に行ったと指摘するのも既に行われたことなのである。まるでラグトーリンの張ったガラス張りの迷宮のようである。