TG出来ぬ者の権利はないのか〜放浪息子 志村貴子

ネタバレしまくりです
ISBN:4757715226
これは酷い。相当に酷い。ネットでは評判の良い志村氏の作品だが、どこがいいのかさっぱりわからない。
主人公は小学五年の転校生で、おとなしくまるで女の子のような少年。隣の席の少女、高槻さんと仲良くなるが、ある日彼女にワンピースを譲られて、女の子になりたい自分に気付く。そして高槻さんもまた、男の子になりたいと願っていて――!?といったストーリー。この設定を見れば、少年少女がトランス・ジェンダー(以下TG、最も広義な意味において)していく為の、社会的な壁や困難、思春期の心の揺れなんかを描くと思ってしまう私だが、それが全っ然違うのである。
この世界ではTG出来ぬ者には存在価値がない。この世界では、マジョリティたる「セックス=ジェンダー」である人になど用はないのである。
これが私には何とも居心地が悪い。私はTGにもゲイにもビアンにも出来る限り寛容になりたいと思っている。ならば、この居心地の悪さは何なのだろう?これは私が、セックス=ジェンダーヘテロセクシャルだからなのか?いや、そうではない。
 
作品の半ば、主人公の女装が見たいばかりに、ある女の子が「男女を入れ替える劇をやりたい」と言い出す。結局ベルサイユのばらをやることに決まるが、練習の際、アンドレ役の高槻さんは、オスカル役の男子、石井君の顔を見て吹き出してしまう。それを見て女子も笑いだす。それは、高槻さんが言うクサい台詞が恥ずかしかったからではない。その彼が、いかにもお調子者の悪ガキといった体の彼が女装にそぐわないから、である。
主人公が女の子っぽすぎて、オスカル役にはそぐわないというので、主人公がロザリーという女の子役に回り、代わりに石井君がオスカルをやらないかと先生に言われる。彼に飛ぶ第一声は女子からの「オスカル様って顔かよー」である。彼らクラスの男子は、ジェンダー越境を拒むわけではない。「オカマ賛成――」と面白がる。が、主人公や高槻さん、女子たちはオカマ・ジェンダーなど認めていないのだ。完璧なTGか、それを眺めるオンナノコか、蚊帳の外のオトコノコしかない。その証拠に、主人公は高槻さんに「とんだオカマ野郎だ」といわれてしまう“怖い夢(主人公談)”を見ている。オカマに居場所など、用意されていない。そこにあるのは嘲笑だけだ。
笑われた石井君は、「TGの論理」に抵抗して、「セックス=ジェンダーの論理」で反撃をする。高槻さんの生理をからかうのだ。高槻さんはそれに「TGの論理」で反抗する。つまり、男の子よろしく新井君と殴り合いをし、新井君を泣かせてしまう(=TGの論理へ引きずり込む。小5で男子が泣くというのはかなり恥ずかしいことであろう)。二人は母親を呼び出されるが、石井の母の「女の子にケガまでさせて!」という息子への責め文句を、否定することはしないくせに。そもそも、石井君をTGに不適格、と断罪したのは、高槻の笑いであるくせに。
このように、この高槻という人物は非常に自分勝手なジェンダー認識をしている。その高槻をはじめ、女子たちに理想として見られるのが主人公である。彼は女子たちに女装させられたり、もしくは主人公の姉に、女装した他の男子二人と屋上で劇の練習をしているところを見られて大笑いされたりとしているが、その姉ですら、「でもシュウ(主人公)だけは、マジでかわいかったんだよ。すごいよお前は」といってしまう。
TGできる事が「すごい」価値である世界の中で、彼のTVもしくはTGは全面的に支援されている。が、この主人公は躊躇う。なぜか。自分の中の他人の姿を借りた妄想がそれを禁忌とするからだ。前述の高槻さんの夢しかり、もしくは姉に「ド変態」と言われる夢を見たりと、1人でイジイジイジイジウジウジウジウジしている主人公だが、その姉ですら、弟に女装させたがるのである。母も「よく似合っている」と誉めてくれる。実は外部には障害なんぞない。
 
そんな漫画、読みたいですか?
 
断言するが、この漫画は世間一般の常識をぶち壊すためにこういう設定で世界なわけではない。新井君だって、実は10コマも出てきていない。ただしこんなにも感情移入の出来ない主人公たちの中で、新井君が私の心にひっかかって仕方がない。
新井君を主人公にすれば良かったのだ。だってそうじゃないか?「オスカル様って顔」じゃないがゆえに、彼はオトコノコだという決め付けをされてしまっている。女顔だったらTVでTGで、男顔だからオトコノコ。彼が仮に、女性化志向をもつ人間だったと仮定してみよう。その時彼のアイデンティティを徹底的に打ち壊すのは高槻の笑いである筈だ。TGしないものではなく、TG出来ない者をあざ笑い、認めない論理。彼をオトコノコに突き戻したのは、他でもない高槻なのである。
 
まだ一巻しか出ていない今作であるが、見通しは暗い。アマゾンで注文したため、「ぼくは、おんなのこ」も同時注文してしまったが、こちらは更に驚愕の設定である。ノストラダムスの大予言が当たったのか、世界中の人間の性が逆転してしまった。これだけなら問題はない。ではその逆転した性を受け入れられない人はどうしたのか?――なんと、ショックで何人も昏睡状態になっており、最悪の場合ショック死をしているのである(笑)。ギャグではなく、本人は真面目に書いているようだ。他にも、家出や離婚などなど、まさにTG出来ないものに、権利など与えられていない。
ジェンダーにまつわる問題は非常に難しいが、このような一方的な描き方をした作品を誉めることなど出来ない。佐藤史生は『オフィーリア探し』で、性的な倒錯*1はないが、男としてはあまりに「できそこない」であり、女性の格好をすると颯爽と美しい人物を描いたが、それを逆さにしたような物語である。これを誰が読むのか、少なくともジェンダーに違和を感じる私ですら、この押し付けには居心地の悪さを感じる。
 
最後に、トランス・ジェンダーについては最も広義な性越境の語としてこれを採用した。使用法に問題があればご指摘願いたい。また、意見に相違がある方はまったく逆の意見のこちらなどみると、お口直しとなるだろう。
ぼくの個人史を偽造をしたい 志村貴子『放浪息子』1巻精読 by紙屋研究所さん(リスペクト!)

*1:本文内の記載による