『オペラ座の怪人』ストーリーと軽い考察

さて。ストーリーは至って明確。ぶっちゃけ『ノートルダムのせむし男』と大して変わらない(身も蓋もない)。私に言わせれば、バレエよりはいくらかマシだが、オペラに比べてミュージカルのストーリーなど、それこそディズニー以下のゴミである。そんなものを見に劇場に行く方が馬鹿だ。*1オペラ座〜の素晴らしいところは、ミュージカルという表現形態を、愛・希望・友情、そして何よりミュージカルが大好きな「サクセスストーリー」に注ぎ込まなかった点である。その代わり、オペラ座〜は(まぁ愛はおいておくとして)絶望、孤独、個人個人の思惑、もしくは狂乱と歓喜と混乱といった、歪んだ、表現の入り組むべき感情を扱う。それは非常に難しい行為である――何故ならプロットが死んでいるから――にもかかわらず、それを音楽でやってのけてしまう。それがこのミュージカルが鑑賞と批評に耐えうる稀有なミュージカルである理由である。
さて、登場人物は以下の通り。

  • ファントム・・・コンプレックスの怪人。自らを音楽の天使と偽りクリスティーヌを地下へ誘う。
  • クリスティーヌ・・・カルロッタの代役で元コーラスガールだが、その声でファントムを虜に。父を亡くしており、父が天国から音楽の天使を送る、といったのを信じている。
  • ラウル・・・ムッシュー。貴族。最高。ラウル万歳。クリスティーヌの幼馴染。

 
さて、カジポンさんにめちゃくちゃ言われているラウルだが、私はラウル役の人の素晴らしさのおかげもあり(黒髪の中央ヨーロッパ系で非常にセクシーでした)ラウルも大好きだった。単刀直入に言おう。私にとってこの物語はファザコンか包容力のある優しい幼馴染を取るかという女にとって究極の二択以外の何者でもない。そしてファントムはそのコンプレックスから愛情表現を憎しみに発展させてゆき、逆に温室育ちで素直で何もかも要領の良いほぼ完璧な男ラウルはとっととクリスティーンに告白し婚約までとりつけてしまう(別に無理矢理婚約するのではない。ラウルは非常に素敵な男性で、二人は単に愛し合ってる)。このミュージカルを見て、もしかしたら同性ならラウルに甘い夢を抱けないかも知れないが、そういう問題ではなく彼はファントムと正反対の存在として必要な男であり、それが一層ファントムの孤独と複雑な感情を引き立てているのだ。クリスティーヌが「私はあなたのつけている仮面(I am the mask you wear)」と歌い、ファントムが「そして(君が歌っていると思って)彼らが聞いていたのは私の声(It's me they hear)」と返し、「私の/おまえの心と あなたの/私の声が一つに合わさって ―オペラ座の怪人はここにいる 私の/おまえの心の中―(My/your spirit and your/my voice in one conbined, The phantom the opera is there - inside my/your mind)」とユニゾンする大好きなパートがあるが、つまりクリスティーヌはファントムの想い人であり、また外界へ彼の音楽を送り出すミューズであり、同時に自分の醜さや寂しさを忘れさせてくれるという存在である一方、ファントムはクリスティーヌにとっては父の幻影たる音楽の天使であり、自分の歌を羽ばたかせてくれた存在であるに過ぎない。
 
以下ネタバレ。個人的にはネタバレがミュージカルの面白みをそこまで削るとは思わない。
 
最後にクリスティーンがファントムにキスすることを「無償の愛」だとか気持ち悪いことをいう人がいるが、別にクリスティーヌはそんなによく出来た人間として描かれているわけではないし、そもそもそういう見方をどこで教わったのか知らないが、何でも無償の愛で片付けてしまう癖はそろそろやめた方がいい。結局彼女はファントムを選ばないのだから、そんな無償の愛なんて本当に無神経な人間にしか出来ないことだ。その後ファントムが絶望と自己嫌悪に打ちひしがれたことを考えたら、あれこそまさに“ありうる限り最悪の結末だ”と考えたほうがよっぽど面白い。頼むから、「怪人は愛とは何かを学んだのだ」なんて言わないで欲しい。あれはあれで、クリスティーヌの毅然とした意思表示であり、そして父と彼の間を“埋める”行為だったのである、とよく解らない確信をもってここに記しておきたい。Pitiful Creature of Darknessに、彼女はWhat kind of life she has knownを伝えたのである。愛に溢れた彼女の人生を見て、一体ファントムは何を考えたであろうか。それこそまさに、彼女をその愛に満ち溢れた世界に還すことであったのではないか。だからこそ、彼はラウルを解放し、最後に一言つぶやく。「クリスティーヌ、愛している」と。
それすらラウルが第一幕の最後に軽やかに愛らしく口にしたのと全く同じメロディーの焼き直しでしかない。
ファントムがChristine, I Love You...という今更言うまででもなく、彼が今まで何度も、遠回りな方法や間違った方法、ひねくれた方法で伝えようとしてきた事実を、ついに彼自身のコンプレックスを破り、素直に口に出せるようになるまでの過程、それがこの物語の骨格であり、そこに「ああ、どうしてそんなに時間がかかるんだ。でも解る。とても好きだなんていえない。そんな容姿で、地下に一人暮らす自分が、まさかあの人に好きだなんて言える訳がない。どうしようもない。だが、もっと早く伝えたかった。」と感情移入できない幸せなお人=ラウルはこの劇を見る必要がない。
 
そうだ。ラウルだ。
私には独自のキャラクター区分というものがある。父といえば「知を強制する人」、母といえば「知ることを拒む人」、少年といえば「知るべき存在」、少女といえば「知らざるべき存在」、そしてその少女を抜け出して「知ろうとする存在」がいわば非少女である。大雑把な分け方だが。
ラウルはどうして少女に当てはまらないのか、ということをしばらく考えている。彼はクリスティーヌが一度地下に連れ去られて夢うつつにファントムのことを語りだすと「信じてくれ。オペラ座の怪人なんていない(Believe me, there is no phantom of the opera)」と返す。これは無知を強要するということにならないかと思ったが、その後のAll I Ask of Youを聞いて気が変わった。「もう闇のことは話さないで。そんな怖いことは忘れるんだ。僕はここにいるし、何も君を傷つけない。僕の言葉は君を暖め、なだめるはず。君の自由になって、日差しに涙を乾かせよう。(No more talk of darkness, Forget these wide-eyed fears I'm here, nothing can harm you my words will warm and calm you / Let me be your freedom, let daylight dry your tears)」と、自分は『光』宣言(let me be your light)をしているのだった。
正直この手の人物は見たことがない。
この劇の中心を「ファントムの要領の悪さっていうかアイラブユーまでのながさに対する共感」と位置づけてしまった以上、私にはラウルは非常に要領のいい、素直な人に見える。オペラ歌手特有の太い首周りをきちきちにつめたクラシックな装いには包容力を感じる。今まで、何度も白痴と言われる人を見てきたし、彼らはまさに太陽のような人々であり、無償の愛――というより人々を差別したり区別したりすることをせず、彼らの落とす影――ユリスモール、を見逃すことはなかった。だがラウルは、意図的ではなくファントムの存在をクリスティーヌのために否定しようとしている。彼の存在が確定した後は、「彼はただの人間だ」とまっとうなことを言っている。
あえて彼のことを形容するならば、非常に好感の持てる馬鹿、といった感じである。世間知らずというか、貴族らしいというか、物事をストレートに受け止めすぎるきらいがあるというか。少なくとも、自分はこういう人となら余裕で結婚できるし、同時に憧憬も出来るし、さらに尊敬も出来る。一体お前はなにものなのだ、ラウル。

*1:ちなみにさらに言ってしまえば、ミュージカルは大半がくだらないが、バレエは大半が面白いので、総合評価はバレエの方が高い。オペラは異様にチケットが高く、高尚な感じがするので知識はあってもまだ手をつけていない。