『ルールと強さ』に関して デスノート関連お返事その3

A Bloody Killer is to rule the world

発端は今さら人に聞けないDEATH NOTEの話id:lepantoh:20060213#1139808928です。

lepantohさんのおっしゃる「僕は何か」的な問題はまさにこの強さの可視化にかかわっていると思います。「海賊王」は強いんです。「火影」は強いんです。アプリオリに。
http://d.hatena.ne.jp/amalec/20060224

昨日の記事に関連して、id:amalecさんが昨日のうちにさっそく詳しく説明してくださったんですが、うまく噛み砕けなくてちょっと考えていました。私はジョジョも読まないし、バガボンドはすごいつまんなくて11巻くらいで男の子にあげちゃったので、色々と理解できない点もありますが、興味深いし面白いです。ただ、id:amalecさんの対等な対話相手が自分ではないということが口惜しいです。せめてもの償いに紹介をさせていただきます。
内容としては、『バガボンド』や『剣の舞』で提示されるのは、ルールがあり、それにのっとって戦うことではじめて強さが解るという流れで、逆にジャンプ系漫画では、まず強さが解っていて、戦うことが次にきて、ルールは最後に来る。という話なんだと思いますが、ジョジョとハンタのジャンプ性/非ジャンプ性のあたりの話は、何度読んでもちょっとわからなくって(ジョジョを読んでいないからかな?)、さらにジャンプにおいてルールというのがどういう位置なのかがいまいちわからなかったので、せっかくトラックバックして頂いたたのに理解できなくて申し訳ないな……という気分デス。『剣の舞』の、「剣では何も守れない」「これは遊びだ」という部分、それに天下一が二人もいて、どっちが強いのかよく解らないところなどは、お話にものすごくリンクしているな、とは思うんですが。
自分としては、そうすると岩明均のもう一つの流れ――戦う文系――を描いた、『雪の峠』『ヘウレーカ』『ヒストリエ』はじゃあどうなるんだろうな、と感じてしまうのも事実で(いやヘウレーカは数学・理科的だけど、卓上の計算式という意味で)、『デスノート』って戦う文系の話だけど、内膳は家老になりたいなんて言わないし、ダミッポスは「ほかにやる事ァないのか?」と言う。それでついにエウメネスは「ひょっとすると冒険とは静かな“図書室”の逆ではなく延長線上にこそあるのかもしれない。オデュッセウスになるのもよかろう」と言う。なんかここらへんとからめて語れそうな気がするんですが、頭が回りません。要はライトが力の可視化のために神になりたがっているのではないと言いたい。
ナルトの『火影』への〈なりたい〉願望は自己反駁済みです。ナルト君はOKです。
私、よく「誰か書いてくれないかな」という言葉を使うんですが、少年誌のことはまだまだ勉強中なので、他の誰かが書いてくださっているものはすごく参考になります。ジャンプって読まれている割には語られていないし、そもそも「今」の漫画って、萌え文脈か文学的にしか語られることがないので(自戒含め)、今回すごく嬉しかったです。それが理解できないのは私の不徳で、単純に悔しいなーと思ったのでした。