『やおい小説論』は論文としてどうなのかしら?

さてと、今年のベストをちゃちゃっと発表する前に恒例のDis行きますかって、本当はねえ、こういう罵倒芸みたいなのもうやめたいんだけどねえ、まあ折角だから対抗言説をあげとくことにするわ。

やおい小説論―女性のためのエロス表現

やおい小説論―女性のためのエロス表現

いろいろとお勉強しようと思ってやおい論を読んでみたんだけど、その中でも一番前評判が高かったのが「やおい小説論」だったのね。昨今はエンターテイメントと絡めたりされてる腐女子という存在、どうも軽めのメディアとの相性が良いみたい。きっと、やおい論やってる方はヤキモキしてると思うのね。だってやおいの人々ってやおい論すごく好きよね、作品論じゃなくて、なぜ自分たちがそういうものを愛好するのかって語りたがるの。それって良いことだと思うわ。だから、もしかしたら「重めの本」がこんな内容で困惑している人もいるんじゃないかなあって、私は本当にそう思ってるんだけど。

テクスト分析という手法は、本当に適切なのかしら?

この本の売りは、やおいの小説を読み倒してテクスト分析したっていうところにあるそうなの。1996年に出版された381冊を対象にしていて、そのことは多くのレビューで推薦文として添えてあるわ。たしかに多く読むことは法則性を見つけ出すためにとっても大切なことよね。
でも、私はテクスト分析っていうものを知らないのよ。怒らないでね、別段私は正しいと思ったことばかりを口に出しているんじゃあないわ。だって私はテクスト分析によってなされた文学上の研究というものに触れたことがないし、それにテクスト分析という文学理論にも触れたことがないわ。私は立ち止まって考えてみて、そしてこう結論したわ。私はテクスト分析なんてものは知らない、ってね。恥ずかしいことかも知れないけれど、そうなんだから仕方ないわ。
そして、テクスト分析にはいくつかの弊害もあるように思えたわ。それが致命的だとわかったのは、少し後のことだったけど。

  • 第一に、仮説と検証というプロセスを踏んでいない。

これは、手法そのものというよりは、それを扱う側の問題だわ。わかりやすく言うと、先行研究にまったく触れられていないの。だから、ここで読み解かれていく事象がどう新しく、どう違っていたのかがさっぱりわからないんだわ。結果として、この文章はただの言及量調査の域を出ていないと思うけれど、言及が多いものが真であると限らないのはみんなが一番わかっているのではないかしら。といっても、実は言及量調査はジェンダー・ロールや性器の表現など特定の部分のみ。それ以外の部分では、自身の論にそぐう部分は一作品からの引用ですませてしまったりしていて、それがどの位やおい小説論の中で流通している考えなのかわからないところもあるわ。

  • 第二に、テクスト分析で止まっていて、その先にある本来の文学研究まで踏み込めていない。

私はこの件でこの論文を強く否定せざるを得ないわ。テクスト分析、というものがただの言及量調査にならないためには、その次のステップこそ肝要なはずだけど、この論文はそこを多く踏み外しているばかりか、「こう書いてあるからそうなのだ」という物言いをするのよ。それって、頭の良い人がすることじゃないわ。だってそうじゃない、フーコーを例に出さなくたって、多くの人がテクストはそれ自体では成立しない、ということを検証してきたはずだわ。これは修辞学や文法を読解しているのではなく、文学論として提出されているものなんだから、そこを踏まえないのは怠慢だし、研究として成り立っているとは言い難いかも知れないとまで思ったの。
別段ディスコースパフォーマティブなんて方法を採る必要はないけれど、テクストは作者、そして読者と関連づけられて語られるべきものだと私は信じるわ。バフチン風に言うとそれは〈対話〉ということになり、テクストは作者と読者の〈対話〉で、それを解釈する時代や場所によって常にその意味を更新される未完のもの……と定義されているはずよ。
そんな「きほんのき」を押さえていないことで、このテクストは恐ろしい論理破綻を引き起こしているわ。とりわけ「第2章 〈やおい小説〉の恋愛形態」の第一節、「Ⅰ 恋愛形態の分析」にはひどい違和感を覚えたわ。この「へテロセクシャルの擬態」という小節では、テクストの中でどのように同性愛が表現されているのかを分析しているのだけど、その読解は作者―読者の関係を全く無視しているとしか言えないわ。
ここで著者はある小説を引いているので、孫引用になってしまうのだけど、私もそこを抜きだしてみるわ。

ドアに視線を止めたまま、林田はしみじみと言った。
「…おまえらはいいよなぁ。豆鉄砲は、本当にチビだから救われてるよ。あのな、おまえと海堂ってすっごくラッキーなんだぞ。そのこと、ちゃんとわかってんのか?」(『金ボタンの距離1』、165p)

これを発言している林田という人は、星崎という彼を押し倒そうとしたひとと体格がほとんど同じだったそうで、そのことに関して著者は、「この場合、ジェンダー的女性性の記号性の差異が中途半端なために、二人の〈受〉・〈攻〉の役割分担が決定せず、関係性が不安定になってしまったのだ」と分析しているわ。私は、今のところ、この指摘は面白いと思う*1。続く読解も引用するわね。

カップル・キャラクターの一方がより顕著な女性性の記号を備え、もう一方がより顕著な男性性の記号を備える。この組み合わせによってキャラクターのカップル化は、はじめて成立する。〈やおい小説〉では、キャラクターが外見の記号性の上で、男・女のカップリングを擬態しているのである。〈受〉の女性性の記号は、「へテロセクシャルの擬態」のための重要な布石となる。前述の引用は、カップル間に「へテロセクシャルの擬態」が上手く機能しないために、「異性愛コード」の抑圧を受けて、カップル化が成らずに起こったトラブルといえるだろう。(p.114)

私はこの読解も面白いと思うわ。ちなみに、「異性愛コード」っていうのは上野千鶴子さんの言葉で、「自分と異なる性に属する者を愛せ」という要求のことだそうよ。さて、問題はここからだわ。上の文章に続く結論を引用するわね。

記号上はヘテロセクシャルを擬態しているため、関係の実質はホモセクシャルでありながら、「異性愛コード」の影響を極限まで減らすことが出来る。「へテロセクシャルの擬態」は、「社会的コンテクスト」をテクストの周辺に追いやり、「異性愛コード」の影響を極力抑えている。それは、「社会的コンテクスト」との摩擦を起こさせず、ホモセクシャルヘテロセクシャルと同レベルのものとすることを可能にした。(p.114)

びっくりだわ。この人はテクストの話しかしていないわ。ちなみに、「社会的コンテクスト」とは、著者による概念で、異性愛をノーマル、同性愛をアブノーマルとする社会的状況および認識のことだそうよ。
繰り返すけれど私は前半の例示*2の読解はとても面白いと思うわ。でも、その要因を著者はこう説明するのよ。「この世の中には異性愛コードがあり、そしてそれをストレートとする社会的コンテクストがある。」→「やおい小説〉が現代社会を舞台とする以上、ホモセクシャルを異端とする認識から無縁であることは出来ない。(p.112)」→「よってテクスト内ではカップルはヘテロセクシャルを擬態することで、異性愛コードと社会的コンテクストの影響を抑えている」。こんなの欺瞞、おためごかしに過ぎないわ。読者はどこにいるのよ。読者はテクストに介在しないの? 読者の〈同一化〉対象は? 読者の〈主体〉は?
そもそも「異性愛コード」が何で「社会的コンテクスト」と、社会の責任に肩代わりされているのかさっぱりわからないわ。読者の存在を考慮して、この評論に対抗するとこうなるわ。やおいというのは異性愛コードと社会的コンテクストから逃れられていない読者によって読まれていて、それゆえ「ホモセクシャル」よりも「ヘテロセクシャルの擬態」が好まれる。そしてどう転んでも読者の愛する対象は異性なのだから、これほど美味しいメディアはない……。この論に著者が反論するには、せめて「社会的コンテクスト」がやおい小説にどのように表れているのか、もっと検証が必要ね。驚くべきことに、そのあたりは全く手が付けられていないんだから、責任転嫁に見えてしまうのよ。
ロード・オブ・ウォー』は武器商人を描いた映画だけど、それを観る人が戦争に賛成しているとは限らないわ。それくらい当たり前のことが、「テクスト分析」の前では消えてしまっているわ。テクスト内で「愛する対象が同性」であることと、そのテクストを異性が描き、読んで「愛する対象が異性」であることの両義性を見逃してしまってはだめだわ……。

いんちきジェンダー論に対抗すると、私はいつもバックラッシュになってしまう

この文章を読むにあたって、いくつか書評を読んでみたけれど、その中でも小谷野敦さんのamazonレビューが出色の出来だったことに、自分でも動揺しちゃったわ。でも、これだけの短い文章で、読んだ人にはわかる問題点を適切に指摘していると思うわ……*3
この論文の底本は、あの問題の本、上野千鶴子『発情装置』なのよ。しかも、当該の本には上野さんによる少年愛評論が納められていて、私はその文章はひどい出来だと思ったのだけど、そこへの反論はまったくなされず、それ以外の部分をひたすら援用しているのも疑問だわ……どうしてこんなことになっているのかしら。
これだけでなく、参考文献の少なさ(40冊)、またチョイスの意図が読めないあたりは問題だわ。とりわけセクシャリティについては、そのものを論じた本がスティーヴン・ヒース『セクシュアリティ』という1984年の本だったりして、大いに疑問が残るわね。だって、この本(注:やおい小説論のこと)のセクシュアリティ研究は滅茶苦茶だもの。
問題の2章Ⅰ節にある「第四のセクシャリティ」という小節は、この本でも最も問題の箇所で、ここでは上野千鶴子さん的な「項」とかいう思考法を踏襲しながら、やおいセクシュアリティを革新的なものとしてでっち上げているように思えるわ。当該箇所を引用するわね。またも孫引用になってしまったことをお詫びしながら。

 僕が好きなのは桐ノ院圭だけで、それは、彼が男だからじゃなくて、圭が圭だからで……(『フジミ③』「マンハッタン・ソナタ」168p)

 それとも……ゲイのあいだじゃ、恋人を交換して楽しむなんてことがけっこうあるらしいけど……乱交とかも……
 僕はいやだぞ! 圭だから好きなんだ。『フジミ③』「マンハッタン・ソナタ」172p)

 でもそれは、僕がゲイの世界を知らないからかもしれなかった。男が男を好きになるなんて心理、今でも僕にはわからない。圭とそういう関係になったのは、相手が圭だったからだ。『フジミ③』「マンハッタン・ソナタ」186p)


三元制という枷を取り払った時に、はじめて「守村」のセクシャリティの輪郭が見えてくる。「守村」は、男性ゆえに「桐ノ院」を愛したわけではない。「桐ノ院」という個性を愛したに過ぎないと、「守村」は繰り返し語っているではないか。それが示す答えはただひとつ。

 「守村」のセクシャリティは、三項のうちのどれでもない。精神と身体の両面にわたる、恋愛と性的欲求の対象を、真に愛する者にのみ限定するという、新しいセクシャリティ。それが「守村」の選んだセクシャリティなのだ。

 ヘテロセクシャルホモセクシャルバイセクシャルの、どの要素も含みながら、そのどれでもない不可思議なセクシャリティ。そのセクシャリティの構成要素は、単一のものではなく、複雑に重層化しているのである。(pp.134-135)

だから「三元制」って何よ、って疑問は当然出てくるわよね。ヘテロセクシャルホモセクシャルバイセクシャルのことを指すそうだけど、これは著者が勝手に言っているだけなのね。というか、これって前々小節の「社会的コンテクスト」とも齟齬をきたす制度化よねえ……。まあ、とにかくその3つのうちに守村のセクシャリティは当てはまらないそうだわ。このあたりの物言いは、議論として全く成立していないし、「守村」がそういっているからそーなんである、みたいな議論の仕方に問題があることも既に述べたとおり。「恋愛と性的欲求の対象を、真に愛する者にのみ限定する」のを「新しいセクシャリティ」とか「第四のセクシャリティ」とするなんて、あまりに乱暴すぎるわ。それはセクシャリティではないし、仮にセクシャリティであったとして、私はそれにピッタリの名前を知っているもの。でも言ったら怒るでしょう、だから言わない。
また、孫引用部は溝口彰子「ホモフォビックなホモ、愛ゆえのレイプ、そしてクィアレズビアン」を思い出す人も多いと思うけど、これまたたびたびタイトルには言及しているにもかかわらず、真っ向からの反論は出来ていない、というかのらりくらりとそれをかわしている感じだわ。
それと、読者の無視はここでも行われているのよね。

ヘテロセクシャルホモセクシャルの場合、恋愛は相手の性別を認識した後にはじまる。最初に性別が問題になり、その次に個性が問題となる。たとえバイセクシャルであっても、最初の段階である性別認識から、完全に自由であると言い切ることは出来ないだろう。『フジミ』における恋愛は、その手順を逆転させている。相手の個性の次に、性別が問題となるのだ。(p.137)

ここでは、性別と個性の二つの問題が表れているのね。まず、性別を問題としない読者なら、わざわざやおい小説を選んだりしないはず。私は指摘されていることに何の価値もないと言っているんじゃないけれど、それが本質ではないとは思っている。それにここでどうしてバイセクシャルが性別認識から自由じゃないと言い切っちゃうのかはとっても不思議よね。それと、個性の問題だけども、本当に読者が「桐ノ院の個性」とやらを愛しているのなら、その人はフジミシリーズだけを読むことになるんじゃなくって。その要素が無いとはいわないけど、やおい小説という形態そのものを愛する人の前で、個性だなんて言葉を説明されても納得できないわ。テクストの中のことだけを語られても、私にはそれが作用しないのよね。

もちろんいい所もあるのよ! でも例の博論を思い出すわ……

さて、そんな風に、とりわけ前半は問題だらけの本書だけど、いい所ももちろんあるのよ! まずは「セクシャリティの多層化」という部分、ここは問題の章にあるんだけど、なかなか興味深かったわ。それと、第3章Ⅱ節「欲望のベクトル」における考察は、『エロマンガ・スタディーズ』の著者さんもはてなで誉めていた気がするけど、ちゃんと議論に読者が出てきていたし、面白いわ。要は、受けと攻めの二つに同一化する、という論旨なんだけど*4、これは私も少女漫画に対して全く同じ事を考えていたし、とても参考になったわ。
ざっと読んだ感じだと、この本の主要な議論は、1.ジェンダーの娯楽化に関して、2.〈受〉と〈攻〉に関して、3.欲望のベクトルに関して、というところにまとめられると思ったわ。私にとっては、1はかなり酷い出来、2はデータ集といった感じだけども切り取り方が固定的すぎる、3がなかなか興味深い、といったところ。論文としてどうなのかしら、という問いに対する答えは、まあこうなるわね。


それにしても、竹内一郎さんがサントリー学芸賞を取って博士論文たるもののクオリティについて議論があったけれど、これも博士論文なのよねえ。先行研究の検討がないことや、何より「当事者の言説」とやらを過剰に重視して議論を組み立てるところはかなり竹内論文を思わせるところがあるわ。竹内が問題になって当該本が問題にならない理由はいくつか思い当たるのだけど、私がここで注目したい一つの差異は、ここでないがしろにされているのは、「マンガ」ではなくって、むしろ「文学」だってことだわ。「文学」がいままで達成されてきたことがないがしろにされている、と私は感じてしまった。
漫画評論がないがしろにされている、っていう異議申し立てに私がいつも違和感を感じるのは、これまた複数の理由があるのだけれど、そのうちの一つはこういうことだわ。人間、生きていく中で興味のないことや能力の及ばないものをないがしろにし続けるしかないんだもの、それが社会的に弱い立場のものにだけより暴力的に作用しているからって、それを騒ぎ立てるのは私の求める戦略ではないみたい。


最後にまとめると、この本の「おわりに」には、「女性同士ではない理由」という結語があるのね、そこで、「女性という制度」そのものに異和(違和の誤植?)を抱く女性が、ヒロインのジェンダーアイデンティティを男性にした、そしてジェンダー的対等性を体現させた、と言う風に著者は述べているのよ(p.318)。それに気づいていて、なんで「テクスト分析」の範疇には「女性という制度への違和」が含まれなかったのか、とても疑問に思ったわ。やおい小説は、そこに言及しているのか、それとも切り離してファンタジーとして成立しているのか*5上野千鶴子はそのあたり、ちゃんとやっていたのにね、どうしてこうなってしまうのかしらん。
いやでも、かたや、腐女子の生態ばかりを描いた杉浦由美子があんだけ批判されているのに、一方でテクストだけを読み解いて先行研究も作者―読者も文学理論もdisregardするテクストはそのまんま、というのはなかなか興味深いことね……。

*1:でも、ジェンダー的女性性の記号性の差異、という言い方は意味不明だわ。的と性と性が連なって何がなんだかわかったもんじゃないもの。類似の言い回しは作中に頻出するのだけど、その度に首をかしげていたわ。それに、ここで言及されているのは体格の話で、それはむしろ身体的な性差と呼ばれるものである可能性も高いわ。社会的な性であるジェンダーという用語をここで「女性性の記号性の差異」当てはめることができるかについては検討が必要だと思うわ。あまりにこういう言い回しが多すぎて面倒だから、検証しないけど。

*2:が、どれだけ普遍的なものかは全く解らないけれど

*3:ただ、私はここで作者がやおいヘテロセクシャルだと主張しているとは思わなかったわ

*4:でも、ここでだけ「マルチな感情移入」という二者択一論を提出した溝口を引用したり、読者を考慮したりするやり口はやっぱり賛成できたものではないけれどね。たしかに溝口はその点で間違った議論をしていたかもしれないけれど、それは彼女の論文の主旨でないことは明白でしょう。どうして前半では溝口や読者のことを無視しているのかしら。それと、攻め側への感情移入に関する議論は、先行研究をきちんとおさえた水間碧の議論の方が建設的でinspiringだと思ったから、やっぱり前半部との兼ね合いでどうしても本書への評価は低くなるわ

*5:後者だとしたらまたこれも「社会的コンテクスト」論との齟齬が生まれちゃうわね。