やおいとホモフォビアは切って離せないんじゃないかと改めて思った

lepantoh2007-03-09

id:Maybe-naさんの論考やおいの物語は本当に「ホモフォビア」の物語なのかについて。
コメントに寄せられた反論を斟酌してすぐに注意書きを付け加えるMaybe-naさんの真摯な態度を見ていると、横からギャーギャーと申し立てるのも品の無いことに思えたけれど/ので、少し気になる点を。
まず、今回のテーマ「やおいとゲイポルノとの相似性について」からは外れつつも、先達に倣って溝口論文の再考から入ることにする。



まず、今回のエントリは、たとえば『やおい小説論』について去年少し書いたけれど、あの本にあるような語彙選択の拙さ(第四のセクシャリティ/個性を愛する)から上手く脱していると思う。
また、例の本では「へテロセクシャルの擬態」論という「社会的コンテクスト=異性愛をノーマルとする認識」に合わせてやおい小説の登場人物は男女のジェンダー・ロールを偽装しているという議論があるが、それは今回のエントリで

何故そんなに登場人物がノンケである必要があるのかと言うと、やおいを愛好する方々の多くが結局のところ異性愛規範主義だからです。つまり根底に「恋愛とは異性同士で行うべきである」という思想が脈々と流れているのだから、やおいにおける登場人物はノンケでなければならないのです。

と、ちゃんと社会から読者への問題に着地しているところなど、納得のいく部分も多かった。


ただし、溝口論文の解釈をめぐっては、正直なところやや違和感あり。
というよりは、結論から言って、同じ現象を良い解釈・悪い解釈で捉えた双子の文章だ、という気がする。
意識的にやっているのか、それとも読み飛ばしているのかはわからないけれど。

■気になった点その1 「究極のカップル」が「ゲイ」をスケープ・ゴートにしているから問題なのでは。

やおい宇宙のやおい宇宙の根幹をなす“永遠の愛の神話=究極のカップル神話”幻想」というのは、他ならぬ溝口の指摘だ。
そして、

しかし、溝口氏は「だからといって、やおいがホモフォビックな言説に二重に加担しているという事実が消えるわけではない」と、やおいがホモフォビック(ホモ嫌悪)な言説に強力に荷担していると指摘しています。

溝口がそのように指摘する最大の理由は、「究極のカップル神話」のために踏み台にされているのがゲイというジェンダーだから、である。
Maybe-naさんの議論では、その部分が何故か欠落してしまっている。
「究極の二人関係」というのはいくつかの場合、単独で存在する確固とした関係ではないらしい。
やおいの関係が「究極の」関係になるためには、コントラストを強めるための比較対象が必要になる。

「抱きたいと思ったんだろ? ココが反応しちまってたんだろう?」
 いきなりにゅっ、と伸びてきた藤近の手が、清水の股間を握る。……略……「ソイツを使いたかったんだろ? 相手は誰でもいいって、節操のない息子じゃねぇだろーが、おまえのは*1

藤近のアドバイスは、志水に同性に対する感情を恋愛感情と認めさせるための友情にあふれるものなのだが、この会話に表れているゲイの定義は、男を性愛の対象に選ぶ男、というだけでなく、男とみれば誰かれかまわず、常に勃起するペニスを持ったプロミスキュアス(乱交的)な男、なのである。
クイア・ジャパン vol.2 p.197


仮に、「究極のカップル神話」の構成員がゲイでもノンケでもないというのなら、その世界が彼ら自身によって創造され、運営され、そして完結するものならば、ホモフォビックな言説に加担しているわけではない、と言えるかも知れない。
(まあ、佐藤さんがそこまで怒ったのはやおいの「究極のカップル」の方のイメージを現実のゲイに投影されたからで、そういう人がまだいるとすれば話は別だ)
しかし、溝口はこう主張する。

「本物のゲイ」キャラクターが乱交的な化け物として描かれる理由は疫病への恐怖ではなく、「ノンケの」主人公の立場を際立たせるためである。ゲイ男性をプロミスキュアスな人間だと描くことで、ノンケの主人公が男に恋し、欲望するという事態の不可能性を強調するという仕掛けだ。ありえないはずの性愛はすでに奇跡の次元であり、したがって、彼の愛は究極かつ超越的であるというわけである。化け物にされてしまう「ゲイの」友人とは、究極の愛のシナリオを強化するための犠牲(スケープゴート)なのだ。
同上、強調は引用者


具体的な例を見てみよう。
溝口は『富士見二丁目交響楽団』シリーズの攻主人公・圭が、ある程度プロミスキュアスな存在として提示されながら、悠季というバイオリニストと出合ったことをこう表現する。

圭は「永遠で究極の愛」を見つけ、それによって「デフォルトとしてのノンケ状態」になった、ということである。ゲイが男との恋愛によって「ノンケ』になるというこのパラドックス! 圭は過去も将来も女性を恋愛の対象とすることはなくとも、「究極のカップル神話」の住人になることで、やおい宇宙においては立派に「ノンケ」の地位を得るのである。つまり、「フジミ」は、ゲイの主人公が、行動上はゲイのままで、「ノンケ」に転換するという、もうひとつの奇跡の物語でもあるのだ。
クイア・ジャパン vol.2 p.199

ここでのかぎ括弧の使い方に注意したい。
というのも、これ以前に溝口は「主人公たちは心身ともに完璧にお互いに夢中で、他の人間は性別を問わず性愛の対象とならない。その意味においては、たしかにゲイではない。それどころか、ノンケですらない。彼らは、『ふたりだけの究極のカップル神話』のなかの住人であり、セクシュアリティは神話の内部で自己完結している。」と言っていて、今度はここでやおい宇宙においては立派に「ノンケ」と言ってしまっているからだ。
要は、やおいカップルは、世間一般でいうゲイでもノンケでもないけれど、やおい世界では「ゲイ」と「ノンケ」として扱われている、というのが溝口の主張なわけ。
ちなみに、「フジミ」のプロミスキュアスなゲイ・イメージはこんな感じ。

僕が好きなのは桐ノ院圭だけで、それは、彼が男だからじゃなくて、圭が圭だからで……(『フジミ③』「マンハッタン・ソナタ」168p)


それとも……ゲイのあいだじゃ、恋人を交換して楽しむなんてことがけっこうあるらしいけど……乱交とかも……
僕はいやだぞ! 圭だから好きなんだ。(『フジミ③』「マンハッタン・ソナタ」172p)


 でもそれは、僕がゲイの世界を知らないからかもしれなかった。男が男を好きになるなんて心理、今でも僕にはわからない。圭とそういう関係になったのは、相手が圭だったからだ。(『フジミ③』「マンハッタン・ソナタ」186p)

(Д) ゜ ゜

■気になった点その2 レイプ・イメージとホモ・フォビアの関連性

溝口の論文では、ノンケ問題/受け・攻め/アナル・セックス/レイプの問題を取り上げているが、そのうちホモフォビックと強い結びつきを見せているのはノンケ問題の部分であり、その他の3つは、全くとはいわないまでも、あまり関連がないんじゃないか、というのが私の見解。
そのあたりが、やや混線している印象を受けた。
そのため、『仰げば尊し』は、「究極のカップル」、そして「レイプ」の物語として類似性を見出されたのだろうけれど、「究極のカップル」部分については私も匿名希望さんと同じような印象を抱いたし、「レイプ」の部分は、仰るとおり「フォビアとは関係なく普遍的なもの」だと思うけれど、そもそも溝口はレイプとフォビアに関係があるなんてコトを言っていない……ような気がする。

■ゲイ差別自体は特別恥じることでもないと思うんだけれど

なんだかいっつも誤解されるので、わかりやすく結論を述べておこうと思う。
私個人としては、何事にも差別はつきものなので、自覚して自戒して改善していけば、そんなに卑屈になることもない、と思っている。
「あなたの好きなバレエ? あれはなんです。人種差別も甚だしい」と言われればその通りだと答えるしかないし。
ただしやおい評論の差別性は別(自分が評論やってるからかも知れないけど)。


それと、ゲイにもいろんなセクシュアリティの人々がいるわけであって、乱交的ゲイを貶めて一対一の関係を志向する人がいてもおかしくない。

私は一対一の関係ってそんなに良いものだとは思わないので、ゲイじゃなくってもやおいとは対立してしまう。
どうもそういうのはセクシュアリティと思われていないらしく、「ゲイ」か「ストレート」か「バイ」か、ということだけが「セクシャリティ」の問題とされるやおい論壇の風潮はどうにかしていただきたい。その点で溝口さんは偉大だと思う。


どうやら最近のやおいはゲイ差別表現が減っているらしいので、あくまで言説を扱った副次テキストとして読んでいただければと思います。

それにしても相手先様のエントリのブックマークが多いのは、「ホモフォビアじゃない」と思いたい人が多い所為? それとも原文に当たっていない所為かしら。

*1:水壬楓子「晴れ男の憂鬱 雨男の悦楽」