なぜオスカーは置き去りにされるのか?『トーマの心臓』のラスト
実は作品中、オスカーはこのラストを見ぬいている。
「トーマ・ヴェルナーに負けそうなんだ……
ユーリの頭から彼を消せないんだ……
ぼくはユーリの手のうちはみんな見ぬいててなにもかも知ってるのに
――ぼくがいちばんユーリを理解できるのに
ジョーカーも持たず何も知らない彼に負けそうなんだ――」(文庫227p)
さすがオスカー。ところが彼にも予測できなかった事態がある。彼はユーリがトーマに奪われることを見抜いていたが、「それを見ぬけるオスカー」自身が、オスカーを貶める事を見ぬけていない。何もかもを知っている、そして見ぬいている――それは神である。
「いろいろつらいことがあるんだよ彼には
ぼくは彼が心を開くのをまってる
でもそれには時間が必要だ」(文庫168p)
まつ――これがオスカーの基本姿勢である。オスカーは全て知っている、そしてユーリが心を開いてくれるのを待っているのだ。それもやはり――神なのである。彼は時がユーリの中のトーマを消すのを、サイフリートを消すのを待っている。勿論エーリクの出現で、それは脅かされる。そして理科室で「……ぼくはきみが……好きだけど きみは エーリクのほうが好き?」と焦ったりもするのだ。
昔 あのころ 世界はもっと明るかった
きみは人を愛しことがらを愛し
理想とするところに向かっていたトーマ・ヴェルナー
あの天使は死んでしまった
そして きみは ぼくの目を見ようとはしないでは ぼくがきみに望んだことを
きみが明るい世界に帰ることを
エーリクはやれるのだろうか(文庫280p)
そして彼が待ちに待った結果、彼は何を得ただろう?得るどころか、彼はトーマにユーリを与えてしまうのである。問題のシーンを抜き出してみよう。校長先生(オスカーの実の父)が倒れ、付き添うオスカーがユーリにくっちゃべる、例の場面である。
「もし彼が死んでしまうんなら 意識のなくなるまえにぼくはどうしてもいってやりたいことがあるんだ――愛してるって!大声で耳のそばでわめいてやる」
「……校長先生を愛していた…?…でもきみはそんなそぶりなどすこしも……」
「じっさいぼくはいい生徒でもいい息子でもなかったからね…!」
「きみの手のうちはそれ?…ずっとまえぼくにいった…」
「そうだよ ぼくのカード ぼくのジョーカー でもぼくの望んだことは――気づいてくれることだったんだ きみでも彼(校長)でも ぼくが愛してるってことに」
「…許していた…?」
「うんユーリ ぼくは待っていた それだけ」(文庫426p)
ここで重要なのは、オスカーを訪れる前、明らかにはっきりとユーリがオスカーをキリストと重ねている描写があることである。
――ぼくはずいぶん長いあいだいつも不思議に思っていた――
なぜあの時 キリストはユダのうらぎりを知っていたのに彼をいかせたのか――
”いっておまえのすべきことをせよ”
みずからを十字架に近づけるようなことを
なぜユダをいかせたのか
それでもキリストはユダを愛していたのか――?
ユダもまだキリストを愛していたのか
きみも―まだ知っていて
だまっていた だまって見ていた ぼくの舞台を
ぼくがみずからをあわれんでいたあいだ――(文庫422p)
当然ながらユダとは、ユーリが作中で自分と重ねあわせている人物である(ぼくだけが彼らのなかのユダだった)。そして、上記のオスカーとユーリのやりとりは、ユーリから見て、ユダとキリストのやりとりにほかならなかったのである。もちろんオスカーとしてはそのようなつもりはなかったに違いない。彼はユーリの心が開くのを待っていた、そのためにはユーリが、自分が愛しているということに気づいてくれるのを待っているしかなかったのである。しかしながら、ユーリにとってはオスカーの言葉は、神さまは誰もを愛してくれている、としか聞こえなかった。
そして彼はオスカーに心を開くことなく、エーリクに全てを打ちあけ、エーリクが最も嫌がっていたこと、トーマとエーリクを重ねることをしながら、その頬にキスをするのである。
そうして事態を悟った聡明なオスカーはこう思うのである。
追ってもむだだろうエーリク
トーマは彼をつかまえた
だからもう待つこともないのだ
すでにユリスモールは 歩をふみ出した
そうしてそれがぼくらのわかれ わかれであり始まりであり(文庫434p)
私が知る限り、オスカーがユリスモールと呼ぶのはこの一節だけである。