なぜユリスモールは神学校へいったのか?『トーマの心臓』の違和感

オスカーは「ぱふ」1979年7月号の漫画キャラクター投票においてエドガー(ポーの一族)を抑えて1位になったという、やたらと人気があるキャラクターである。ただし、『トーマの心臓』においてのオスカーの位置は、主人公ユリスモール(ユーリ)、そして死んだトーマにそっくりなエーリクに次いで、三番目くらいの重要キャラでしかない。ユーリのことを好いており、一つ年上の同級生で、気の利くお兄さんのような存在である。ところが、物語において、ここぞとばかりにおいしいところをもっていくし、繊細さと優しさ、リーダーシップを兼ね備えており、確かに格好いい。
しかし、オスカーの想いは報われない。ユーリは神学校に行ってしまうのである。

この物語は、ユーリが思い悩んでいることを知ったトーマが、なぜ自殺したか、その意味を探す物語だ、とよく言われる。しかし、ユーリが何を思い悩んでいるのか、私たちには最後まで明かされない。そこで、私たちはエーリクやオスカーの目を通して、ユーリを見ることになる。そうして、最後にエーリクに明かされるユーリの苦悩を聞き、私たちはその本当の意味を理解する。そこで漸く、読者とユーリが一体化するような構造をとっている。しかしながら、その後、やっぱりユーリは神学校にいってしまうのである。ここでもう一度、私たちはエーリクとオスカーの元にかえり、彼らと一緒に、ユーリの乗る列車を見送る羽目になる。これこそが、この物語を読んだ後に感じる違和感の正体である。
もう一度この物語を読み返すとき、私たちは既にユーリの苦悩を知っている。ところがエンディングは変わらない。そしてまた私たちはエーリクとオスカーの横に立つしかない。

結論から言えば、ユーリはオスカーに最もしてはいけないことをしたのである。
私はこの物語をこのように解読する。翼を失ったことを悩んでいるユーリは、サイフリートにうけた仕打ちと、その彼に惹かれていた自分を否定し、トーマの愛(アガペー的、神からの愛)を受け入れられずにいた。しかしトーマはユーリの為に自殺し、エーリクによってその意味を知る(といっても、トーマは翼のことを知っていた筈はないので、翼をあげるというのはメタファーでしかない)。そしてオスカーの告白を受け、勘違いし、オスカーをキリストと見做し、自分が許されたことを知り、エーリクをトーマと見做し、トーマを天使と見做し、罪を告白した後、トーマの愛の支配下に入ることを選ぶのである。
私たちがやるせないのは、私たちがエーリクやオスカーであり、ユーリに対しては彼らと同様にフィリアしか持ち得ないからだ。ところが彼は、多くの友人に愛されていてまだ満ち足りない。彼に必要なのは神の許しなのである。そこでオスカーは、神の仮面を被せられることになる。