5、性器を持った少年は父性と対立する?

さて、ここで一旦萩尾望都吉田秋生の話に戻りたい。そもそも彼女達の根底には、女性性、母性の忌避があるという話を私は1、萩尾望都で触れたが、実は吉田秋生作品において、母親と対立するという構図は殆ど取られない。大体が父性との対立の物語である。萩尾望都のほうはというと少し違って、例えば『トーマの心臓』では父性に理想を抱き、結局その父権体制に回収されるわけだけれど、もしくはこの娘うります!での父親からの悪意のない拘束や、スター・レッドでの義父の描かれ方を見れば解るとおり、初期萩尾望都にとって、父性は憎悪の対象ではなかった(母性や女性性の忌避をうかがわせる作品が『かわいそうなママ』『雪の子』)。ところが、『訪問者(’80)』で、父に焦がれ続けるも結局捨てられるオスカーの話を描いた後発表された『メッシュ(’80)』では、父性との対立がメインテーマになる。さらに注目すべきなのは、母親にうりふたつのダブル(分身)として設定されていたオスカー・ライザーに対し、メッシュは男性であり、ヘテロ異性愛者)であり、それなのに女性の名前、フランソワーズ・アン・マリー・アロワージュ・ホルヘス(暗記してる!)という名前をつけて生まれたという、ジェンダーのなかで悩むことがはっきりと提示されている画期的なキャラクターだったのだ。またこの作品のなかでは初めて「同性愛者」という言葉が出てきている(いままでドウセイアイだとかオンナだとかオトコだなんてことは全く関係のないことだった)。更に、彼はなんと作中で二度、女性と関係を持っている。これも萩尾少年主人公初のことだと思われる。とにかく彼は萩尾作品の革命児、勃起する性器を持った少年なのである(ただし彼は作中二度カマを掘られており、受動性器ももっている。彼の性別イメージは超多様で、その原因が最終回で明かされるという構造をとっている)。そして彼は父性と対立する。
性器/受動性器を持った少年が父性と対立するという構図は、吉田秋生『カリフォルニア物語』『河よりも長くゆるやかに』『BANANA FISH』に見られ、萩尾望都『メッシュ』残酷な神が支配する』にも共通している。更に注目すべきなのは、ここでの母性の表され方で、失われた憧憬の対象(カリフォルニア、バナナ、河よりも、メッシュ)か強い一体化(メッシュ、残神)であり、どちらにしても否定されるものではないということである。*1
蛇足ではあるが、花の名前をもって生まれたヒースはメッシュと同じ構造である。また『メッシュ』と『バナナフィッシュ』の物語構造も共通している。たとえばマフィアのボスであるサムソンとゴルツィネ。主人公に付随する天使と悪魔の両義的なイメージ。

*1:超例外としてあるのが、マージナルです。これについてはまたいつか。