『女性になれる』性的メリットを捨てるとき

さて、実際24年組は、初期の「ジェンダー越境の実験」から、少なからず歩を進め、『天人唐草』のような女の業に目を向けたり、はたまた竹宮や萩尾のように実験を繰り返したりしているわけですが、そこからエンターテイメントにも派生し、焼き直しになりますが、萌え要素先行のやおい文化が生まれる。といっても私はやおいを読まないので、違うなら反論していただいて結構です。で、それに対して男性側には大きいお友達がいらっしゃる。こちらも萌え要素先行ですね。
ところで、問題は少年向けの逆ジェンダー・エンターテイメントとやらが、萌え要素と感情移入を並立させている、ということなのですが(松谷さんの指摘する「両天秤構造がない」、というところは了解です)、要は男性側にセクシャリティに関する切羽詰った、どうしようもなさがないのですよね。だから狡くなってしまう。簡単にいうと、少年モノを読むとき、女性にとっては『女じゃないものになれる』ことが重要、もしくは『男になること』は大した意義を持っていないのに対し、男性にとっては『女性になれること』が重要になってくる、そこらへんの、セクシャリティに関するズレに興味があるのですね。

  • 少女は所謂少年漫画を読み、主体性を獲得できる、力(おもに運動能力)を得る、少年は所謂少女漫画を読み、女性目線での恋愛を知ることしか出来ない→少女漫画のメインストリームを離れる
  • 作者が『女になれること』を無視できない→萌えに転ぶ
  • 再帰的/反省的(reflective)な視点がないby松谷氏→狡い

ところで、もともとの文には

小学生の作文を集めたある本の中で、現職の小学校の先生でもある作者がこう嘆いていた。

  女の子は大人しければ、『おしとやかでイイ子だ』と褒められ、元気で男勝りだと、これまた『勝ち気でイイ子だ』と褒められる。なのに、男の子はいつも『騒ぐな、暴れるな、規則を守れ』と怒られてばかりいる。だから毎日、ものすごくストレスをためているんだ、と。

とあるのですが、……勝ち気でイイ子というのは私の世代にはまだなかったですね。男の子だと「リーダーシップ」という言葉があって、女の子には「でしゃばり」という言葉が与えられました。よく学級委員とかやると(笑)
本当に今、上記のようなことが起こっているのなら、彼らが大きくなったとき、逆ジェンダーものは自然と発生してくるはずですが、それが「明るく元気な女の子」の活躍する「エンターテイメント」であるかは、甚だ疑問であるわけです。希求されない以上、それは「狡いエンターテイメント」でしかありえないのかもしれません。エンタメとしては、それが一番面白いでしょうから。